第十五話 静かなる

「…お願いします…。」


パシンと軽く拳を当て、試合開始の合図とする。


(…直ぐに来る…この選手は真っ直ぐ飛び込んでくるんだ。)


相手は典型的なブルファイター、真っ直ぐ直進し額でパンチを受け止めるスタイル。


俺はバックステップで距離を取り、その動きを確認する。


(…やっぱり来たな。)


相手の求め通り額に向けて左を軽く伸ばすと、そのまま少し力を込め押す。


それと同時に再度バックステップ、振り回してきたフックを躱した。


「…シッシッ…」


そして打ち終わりを逃さず、当てるだけのジャブ。


当然効かないので、無理矢理に振り回してきた所を、小さく下がり躱しながら強い左。


「…シッ!」


当たったのを確認したら、視界を塞ぐように左を伸ばしもう一度距離を取る。


相手が俺の腕を払いのけると同時、既に距離が出来ており追撃が出来ない形。


こうなれば当然、一度足を止め左の差し合いをする事になるのだが、そこは俺の独壇場。


結局強引に飛び込まざるを得ない結果となり、同じ流れを踏襲する事になる。


俺は自分の左を受けた事が無いので分からないが、会長曰く一発貰うと本能的に逃げたくなるほど痛いらしい。


(…この辺に当てると、みんな嫌がるってポイントはあるよな。)


手首を返し、目の下あたりの頬骨を削る様に当てる。


これをすると大体動きが止まり、次の一発に繋げやすいのだ。


「……っ!?」


相手は覚悟を決めたか、痛みなど知らんと言わんばかりに額を突き出し向かってくる。


しかし俺は足を止めない。


「…シッシッシッ…シッシッシッシッ…」


絶えず下がりながら左を突き、ガードを開けたら痛いぞと脅しながら逃げ回る。


そして意を決した大振りなフックに合わせ、


「…シィッ!!」


体勢を低く沈ませ踏み込むと、右ボディストレートを伸ばす。


更にそのまま流れるようにクリンチ。


全く盛り上がらない展開のまま、時間だけが過ぎていく。

















試合は第四ラウンドまで進み、展開は何一つ変わっていない。


互いに決定打はなく、それでも幾度となく左を浴びた相手の顔は紅潮している。


だが効いている訳では無いだろう。


その証拠に足取りは確かで、今もしつこく俺を追いかけ回して来る。


こちらはずっとロープ際すれすれを動き回っているので、印象的にはあまり良くないはずだ。


しかしパンチをもらってはいない。


「…シィッ!!」


左から入る事を印象付けておいての、いきなりの右。


ガードの上だが、警戒を促すという意味では大いに役立つ。


案の定、一旦様子見と言った感じになった所を、素早くサイドステップで回り込み、また追い掛けさせる展開。


この試合は八ラウンドだが、たとえ十ラウンドだろうと十二ラウンドだろうと、俺の足は止まらない。


体が軽い、いつまでも動けそうだ。


「…シッシッ…シッ…シュッ!!」


相手が追い掛けようと前のめりになった所に、踏み込んで左アッパー、すれ違いざま距離を取ると左を伸ばし動きを制す。


「…シッシィ!」


相手が邪魔な腕を無理やり払い視界が開けた瞬間、ワンツー。


別に当たらなくたっていいんだ。


リーチで負けていても、初動を掴めばそんなものはどうとでもなる。


強弱だけではなく、早ささえも変幻自在な左、それが今の俺のリードブローだ。


(…肩から入って来るな。)


多少の被弾は覚悟で強引に来ようとした時は、一切付き合わない、全力で逃げる。


左方向に向かうぞとフェイントを掛け、追い縋り重心の傾きを確認した直後、逆側にステップ。


相手のパンチは見当違いな場所で空を切る。


そんな光景を遠くから眺めた所で、ゴングを聞いて俺は自陣へ戻っていった。













第七ラウンド、会場は静まり返っており、マットにこすれるシューズの音がよく響く。


展開は変わらない。


いや、一つ変わったことがあるとすれば、相手が鼻血を出している事か。


だがそれでも足取りは確かで、疲れは見えるが倒れそうな素振りはない。


(強引に来るようになったな…そろそろ脅し掛けとくか…。)


当初は高く構えていたガードだが、疲労と緩みで顎下まで下がる事が多くなった。


緩みとは俺のパンチに対する警戒度の事。


貰ってもどうせ倒されないと、そう思っているのだろう。


そろそろ狙い目だ。


ロープ際、サイドステップで逃げるこちらを、相手は右を大きく振りかぶり追い掛けて来る。


俺は半歩程度の小さなステップ、大きな一発の準備に掛かった。


相手の伸ばした右が鼻先に届くが、射程はすでに見切っている。


「…ヂィッ!!」


右のコークスクリューブロー。


側頭部を掠める様な当たりだが、それでも効いたらしく、相手はフラリとロープにもたれ掛かる。


会場が初めて沸く、しかし俺は特に気にもせず眺めると、ガードの上から軽めのパンチをぶつけた。


相手は当然死に物狂いで振り回して来る。


だが俺は付き合うつもりなどなく、バックステップして左を突きながらゴングが鳴るまで逃げるだけ。









最終ラウンド、もう後の無い相手は疲弊した体を引き摺り追いかけ回してくるが、動きに切れがない。


額に軽く左を伸ばし押すと、そのまま後ろに上体が揺らいでしまう程。


だが俺は最後まで打ち合いなどには応じず、終始安全圏を確保。


パシンパシンと小さなパンチを当てていく。


そして体全体で振り回してくる相手を躱した所で、試合終了。


結果は当然、俺のフルマーク判定勝ち。


そしてこれも当然だが、拍手は非常にまばらなものだった。








検診を終え控室に戻ると、会長たちと談笑する松本さんの姿。


「おお、来たね。」


一体今日の試合がどんな風に見えたのか、少々怖いが問い掛けてみる。


「凄かったよ。言うなら、クワイエットボクシングって感じかな。」


確かに会場は静かだったが、別にそれを揶揄している訳では無いだろう。


話を聞いていて思ったのだが、メインイベントは今やっている最中の筈、良いのだろうか。


「同僚が見てるから大丈夫。俺は遠宮君のインタビュー取らないとね。」


そしてバンテージを外してもらっている間、いくつかの質問に応えていく。


「いやぁしかし、これからのマッチメイク難しそうですね成瀬会長。」


それはあるだろうが、選手側が心配する事じゃない。


俺の仕事は会長を信じて、作ってくれた道を迷わず歩み進んでいく、それだけだ。

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