第十二話 凹んでる暇などない
六月二十五日の金曜日十七時ごろ、俺は我が家へと到着。
「あ、お帰りなさい。」
「うん…ただいま。」
帰り着いた我が家には、変わらない表情で迎えてくれる亜香里がいた。
その胸に抱えるスイは、数日留守にしただけだというのに、もう俺を忘れたかのような素っ気無さ。
それはそれとして、キャリーバッグを抱え玄関から入ると、まずはお土産を渡す。
向こう限定味のお菓子と、タイパンツと呼ばれるゆったりとしたズボン数着、そして何故か口紅。
取り敢えず空港で目についたものを買った感じだ。
「…ありがと…でもこの口紅、凄い色だね…。」
言われてみれば、確かに若い女の子が付けるには少々ドギツイ赤。
「ああ~…確かにそうかもしれないな。まあ使わないなら奥にでも閉まっておいてよ。」
苦笑いするその顔を見ると、既に試合の結果は知っているのだと察せられる。
こちらの情報番組か何かで流れたか、若しくはネットか。
どういう流され方をしたのか少し気になるが、結果は結果だ、それは厳粛に受け止めざるを得ない。
居間にたどり着くと長旅の疲れがどっと込み上げ、俺は大の字になった。
「ご飯は?お風呂入れよっか?」
亜香里は普段からこんな感じだっただろうか、優しさが心に染み入る。
「いや、ジムは今日休むから走りに行ってこようかな。」
「え?帰って来たばっかりなのに?」
「うん、内容はどうあれ、結果が出なかったことには変わりないし、ちょっと体動かしたい。」
亜香里はそんな事を語る俺を、どこか呆れ交じりの表情で見送ってくれた。
俺はもうすぐ夕暮れ時の川沿いを走る、道行く人は様々。
下校途中の学生もいれば、犬の散歩をしている老若男女。
俺に気付いて声を掛けてくれる人もいるが、その殆どが頑張れとか励ましの言葉。
結果的には、二戦連続で勝ち星が付かなかったのだから、それも致し方ない。
だが俺本人はどうかと言えば、それほど悲観する必要は無いと感じている。
その理由としては、帰りの機内で会長に言われたある言葉が要因になっているだろう。
「今までで一番強かった…か。」
俺は一旦立ち止まると、夕焼けを背負いシャドーをこなす。
そう言ってくれたのは会長だけではなく、及川さんも同じ事を言ってくれた。
二人の評価としては、この間の試合はボクサー遠宮統一郎の良さが全て出た試合だったという。
結果については、何を言おうとも後の祭りでしかないので何も言わなかったが、その言葉だけで俺は報われた。
「あのやり方で行こう。すると、やっぱり暫らくは自主興行打てないかな。肩書を得てから…か。」
色々難しい事情はある。
あのスタイルではお客さんを呼べないとか、つまらなくて強い選手は敬遠されるとか。
今はまだ知られていないからいいだろうが、あのスタイルで勝ち星を重ねていけば、いずれはマッチメイクも難しくなるだろう。
現状でそれを心配するのは捕らぬ狸の皮算用だが、俺にはそれだけの手応えがあった。
あのスタイルこそが一番力を発揮出来るものであり、この先突き詰めていくべき形であると。
そう、例え心がそれを望まないとしても。
肩書さえ手に入れれば、きっとお客さんも呼べるようになるはずだ。
ライト級は激戦区、世界戦のチャンスなんて、勝ち続けた先で一生に一度巡って来るかどうか。
いや、普通に考えれば巡って来る事など無いだろう。
それでも、続いていると信じてやるしかない。
結局俺に出来る事は、会長達を信じてリングに上がり続ける事だけなのだから。
翌日の早い時間、仕事は休みだが体は元気な為、お土産を携え職場に向かった。
従業員用入口から入ると、丁度朝礼をやっている最中。
「あ、これ。タイのお土産です。色々な味があるのでみんなで食べてください。休憩室に置いておきますね。」
皆は一瞬驚いた顔を見せたが、皆が一様に俺の顔を見て不思議そうな声を上げる。
「ありがとう。でもあれだね…顔に全く殴られた痕無いね。」
店長が皆の疑問を代弁する形で問い掛けてきた。
「え?ああ、そうですね。今回は軽いジャブが触れた程度だったので。」
「それで引き分けになるのかい?ボクシングってよく分からないね。」
「まあ、何と言うか、そう言う事も含めての海外遠征って所ですかね。良い勉強になりましたよ。」
余り長居しても邪魔になるので、軽く挨拶をして退出した後は、隣の病院へと向かう。
「成瀬会長から聞いたぞ。そう言う事もあんだな…ま、当人が意外に元気そうなのは救いか。」
一応診察に来るのは、俺の義務の様なものだ。
「うん。でもさ、これからどういう戦い方をしていくかの道筋は出来たから、収穫はあったよ。」
「それは診察すりゃわかる。痣すら殆どねえ。成瀬会長が完封って言ってたが、本当なんだろうな。」
「え?そこまで言ってた?」
「ああ、世界に通用するって息巻いてたぞ。後は自分が相手を見つけられるかの勝負だってよ。」
そこまで評価してもらえると、聞いているだけで嬉しくなる。
「そっか、じゃあ俺は期待に応えるだけだね。」
俺は椅子から立ち上がると、叔父に軽い挨拶をして外へ向かった。
「お、坊主じゃねえか……へっ、どうやらしょぼくれた面見せに来た訳じゃねえようだな。」
強面がこういうセリフを吐くのは、まるで暴力映画のワンシーンのようで、凄く似合う。
「お前…何か失礼なこと考えてねえか?」
首をブンブンと横に振りながら俺が手渡したのは、色取り取りのタイパンツ。
「…土産か?このピンクの緩っとしたズボンを俺に身につけろと?」
「うん!意外に似合うと思うんですよね。ほら、ギャップ萌えってあるじゃないですか?」
「何で同じ色が二着ずつあんだよ…。」
「奥さんとお揃いで着れる様に買ってきたんですよ。」
そんなやり取りを聞いてか、奥さんも出てきて会話に混ざる。
「あらぁ~良いじゃないのぉ。あんた、今日から早速着てみましょうよ。」
「ええ。お風呂上りとかリラックスできると思いますよ。」
気の進まないという表情を浮かべる牛山さんも、家の中でならと渋々頷いた。
次にやってきたのはフィットネスジム。
ここには単純にトレーニングをしにやって来ただけだ。
すると、サンドバックを叩く小柄な少女の姿が目に入る。
「あ、お兄さぁ~ん、お久しぶりです。今回は惜しい結果でしたが、次も応援してますね。」
亜香里の唯一と言っていい友達、後藤春奈ちゃん。
普通は踏み込めない所に踏み込めるのは、このほんわかとした空気のなせる業か。
サンドバックを叩く姿は、まさに猫パンチを彷彿とさせる回転の速さを誇る、音もパフパフと可愛い。
「有り難う。亜香里はいつも暇してるから、ちょくちょく遊びに来てあげてよ。」
「良いんですか?じゃあ、この後行っちゃってもいいですかね?」
俺は快く了承すると、後ろから誰かの気配。
「遠宮く~ん、ここはナンパする場所じゃないぞ~。」
振り向くと、ジトっとした目を向けている及川さんがいたので、取り敢えず軽く弁解してからトレーニングに移った。
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