第十一話 可能性

第八ラウンドが終わり、ここまでは作戦通り上手く嵌っている。


いや、向こうに視線を向ければもう肩が大きく上下に揺れ、パンチにも切れがない。


「…特に言う事は無いかな。強いて言えば、最後まで油断なくってとこ。」


俺は静かに深呼吸をしながら耳を澄ませていた。


確認しているのだ、スタミナの残量、痛めた場所は無いか、気持ちが緩んではいないか。


すべて正常、何も問題はない、そう判断し立ち上がる。


観客の皆さんも少し諦めが入っているのか、静かになってしまった。


面白い試合を見せたい欲は勿論あるが、それ以上に今はこの形を確立させたい。


ゴングが鳴り歩み寄る相手の顔には、ありありと疲労の色が伺える。


だがそれでも強打は健在、俺のパンチに対し無理矢理合わせようとしてくるのだ。


しかしもう足に力が入らないのか、縺れ倒れ込んできてしまう。


クリンチになると何があるか分からないので、俺はスッとサイドステップで避ける。


この試合は徹底的に距離を取る事を優先。


冒険は一切せず、危険な距離には絶対に飛び込まない。


緩慢な動きで立ち上がる相手のグローブをレフェリーが拭き、試合再開。


「…シッシッ…シッ…っ!?」


こんな軽いリードブローにさえ、体全体を使った大振りなパンチを被せて来る。


その瞳には執念を感じ、緩みそうになる気持ちを咎めてくれた。


「…シッシッシッ…シュッ…」


左、左、左、軽く三連打からの、大振りな左の撃ち終わりに合わせこちらは右を伸ばす。


「…チィっ!」


しかし触れるか触れないかという所で、素早くバックステップ。


ブオンという風切り音が聞こえそうなほど、強烈な右の返しが返ってきたのだ。


(もらう事を全く怖がってないんだよな…俺のパンチだからってことはないと信じたいが…。)


力があるとは言っても追い掛ける足は既に無い様で、リングを大きく使う俺をのそのそと追いかけて来る。


(距離を守る…絶対に油断しない。何があるかなんて最後まで分からないんだ。)


踏み込むフェイントを見せ誘導してから左を突き、パシパシと細かなパンチを当てていき九ラウンド終了。







「…完璧。最後まで貫こう。この試合は欲を封印だ。」


心なしか、首筋にあたる氷嚢から及川さんのエールも伝わってくる気がした。


解説の声はどこか元気なく聞こえ、観客の声援も鳴りを潜めている。


恐らくは相手方も、この間の試合を見て俺を呼んだのだろう。


これなら勝てる、と。


楽にランキングを奪えると、そう思っていたのではないだろうか。


だがあのリングでは、一度だって本来の戦い方が出来たことはない。


常にお客さんを呼ぶためのボクシングを考え、勝つ事だけに拘る戦略など許されなかった。


職業ボクサーを成り立たせるためのやり方を、考える必要があったのだ。


コークスクリューなんて、そもそも本来の俺には使う機会など早々ない。


会長だって、飽くまでお客さんに魅せながら倒せるパンチという意味で俺に教えた筈だ。


ゴングを聞き、最終ラウンドへと進む。


締めくくりのラウンド、挨拶の意味を込め軽く左を伸ばすと、相手も返してくれた。


向かい合うその顔は疲れ切ってはいても、なお闘志衰えぬといった所か。


もうガードを上げる余裕さえないのか、全ての力を攻撃に振り分けている。


血走った眼で距離を詰め、俺が打つのを今か今かと待ち構え相打ちを狙おうという腹積もり。


(…いま必要なのは…早い左っ!)


パンッと乾いた音が会場にこだまする。


只々最短距離を走る、俺の一番得意なパンチ、ジャブ。


ここまで比較的早さに拘ったパンチは打っておらず目が慣れていない上、疲れ切った最終ラウンドでは避けられる道理はない。


相手は顔を弾かれ、よろよろと後退しながら一拍遅れの強振。


それでもこちらを見定める目には闘志が消えず、次を打ってこいと言わんばかりの光が宿っている。


(…今まではこういう時、結構熱くなって踏み込んでたな…。)


俺は踏み込むことはせず、ギリギリこちらの射程内と言った距離で、何度も何度もしつこくフェイントを繰り返す。


そして空振りを誘発し、バックステップで躱しざま右を伸ばすが、相手は踏ん張りがきかずそのまま倒れる様に腰にしがみついてきた。


その力は強く、レフェリーに剥がされる前に自らの力で解こうとしたが出来ない。


相手はこれをチャンスと思ったか、左腕だけを腰に回したまま、右をがむしゃらに叩きつけて来る。


俺はしっかり動きを見極めガード。


(まだ力はある…が、流石にガードの上から如何こうって程では無いな。)


しかし振り回した一発が、左足の大腿部に当たり少し痛みが走る。


恐らく狙ってやっているのだと分かり、一瞬頭に血が上りかけるも平静を装った。


だが、レフェリーがいつまで経っても引きはがしに来ない。


その間も右を叩きつけられ、完全に肘による攻撃も混ざり始めた。


「…レフェリーっ!ブレイクっ!」


会長の声が響き、漸く引き剥がされ一安心。


(ちょっとリズム狂わされたな…後どのくらいだろう?)


先ほど肘を喰らったからか、右の脇腹が痛い、大腿部にも少しだけ痛みが残る。


後に引く様なものではないが、この試合中は引き摺るだろう。


これが試合前半なら大きな問題になっただろうが、残り時間はもうあと僅か、特に支障はない。


そしてすぐ後ゴングが鳴り、互いが一応の健闘を称え自陣へ戻る。






自陣で待つ二人の表情は正反対、不安気な会長と笑顔の及川さん。


俺はやるだけの事をやったと、只静かに結果を待つ。


しかし結果が告げられた瞬間、及川さんから表情が消えた。


「…え?嘘でしょ?何で………ドロー?全部取ってるよね?」


呆然としていたのは俺も同じだが、会長に軽く肩を叩かれ静かにリングを降りる。


「ちょっ、ちょっと成瀬君っ!?抗議しないのっ!?」


「…結果は何も変わらないよ…統一郎君を動揺させるだけだ。」


俺は泣きそうな顔をする及川さんの肩を叩き、軽く笑みを浮かべた。


こういう事もある、今はあまり考えられないが、昔はきっと逆だってあったんだ。


「…ゴメン…一番つらいの遠宮君だよね。」






控室に戻ると、俺は一つだけ確認した。


「…会長…どう…でしたかね?」


俺の頭を撫でる会長の手は、少しだけ震えていたような気がする。


「…改めて君の可能性を感じた。光を見たよ…見せてもらった。最高の試合だった。」


俺が顔を上げると、及川さんの目に涙が揺れているのが見え、少し心が痛んだ。


「確かに見栄え良くなかったかもしれないですね。ずっと前に出てたのはサムット選手だし…。」


自分を慰めるための言葉、今の思いを発露してしまうと、抑えきれなくなりそうだから。


だが会長は言った、可能性を感じたと。


足踏みを続ける結果にはなってしまったけど、ならばきっと、また道を作ってくれるはず。


俺はそう信じて、これからもリングに立ち続ける、それだけだ。

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