第十話 自分のスタイル

試合は第四ラウンドに入っていた。


観客達は俺に向けて何かを言っているが、生憎その言葉は分からない。


いや、例え分かったとしても俺には関係ない。


「…シッ!!…シュッ!!」


同じ展開が続く。


ラフファイトに巻き込みたい相手と、絶対に距離を譲らない俺。


自分でも分かっている、この試合は本当につまらない展開だ。


山も谷も無く、一方は下がりながら力の籠らないパンチを放ち、一方はそれを追いかけるだけ。


だが、見る人が見れば分かるだろう、分かってくれるはずだ。


真っ直ぐ前に出てくる相手に、俺は左を伸ばす。


早く打つのでもなく、強く打つのでもなく、このパンチの目的は視界を塞ぐこと。


撃ち抜くでも弾くでもない、言うなれば押すだけのパンチ。


当然相手は払うか躱すかしてくるのだが、その時を狙い撃つのだ。


「…シィッ!!」


何度もやられ学習しているのか、相手は顔を横に向けながら大きなフックを被せて来る。


だがそれも想定内、慌てず小さなバックステップから再度踏み込み右を伸ばす。


目標は腹。


相手のガードは相変わらず高い為、ボディストレートが良く入る。


ムエタイならばここで膝が飛んでくるのだろうが、生憎これはボクシングだ。


しかし軽いパンチなので当然それほどは効かず、臆する事無く力強いパンチを振り回して来る。


俺は素早くサイドステップ、追いかけて来る顔面目掛けまたも視界を塞ぐ軽い左を伸ばした。


ずっとこの繰り返し、そりゃ罵声も飛ぶ。


「…ぉっと!?」


それでも一瞬の油断すら許されない。


隙あらば強引にパンチを振ってくる上、その軌道がやけに低かったりするのだ。


そしてゴングが鳴り自陣に戻ると、会長が満足気な笑みを浮かべ迎えてくれた。







「まさに絶好調だね。多分なんだけど、ここまで敵地で安定した試合運びを見せた日本人選手は初めてじゃないかな?」


過分な言葉を頂き有難い限りだが、試合はまだまだ半分も終わっていない。


「足、どう?」


「全然平気ですね。全く疲れた感じとか重い感じとかは無いです。」


「そっか。じゃあ後は一つ注意点、あの低い場所を通過するパンチね、足を殴ろうとしてるから要注意。」


なるほどと思った。


確かに反則であり減点されるかもしれないが、それで足を痛めつけ使えなくしてやれば捕まるということか。


KОしてしまえば減点など関係ないという腹積もりだろう。


「クリンチも要注意だね。前に僕もやられたんだけど、首持って投げたりしてくるから。足踏まれるのも気を付けてね。」


注意点を総合的に鑑みれば、必要以上に近づくなという事。


頷きながら立ち上がると、ゴングを聞きながら前に進み出た。


すると、眼前には猛然と突き進んでくる相手の姿を確認。


(これも想定内だな。このまま肩で押してコーナーに詰まらせようとか、そう言う感じかな?)


俺はその場で小刻みにステップを刻み、タイミングを計る。


(…左は…フェイントだろ?…本命は…右っ!!)


右のオーバーハンドに合わせ左へサイドステップ、同時に横からアッパーを突き上げた。


綺麗に顎に入ったが、これで参るほど甘くはあるまい。


素早くバックステップすると案の定、力任せの大きな左が鼻先を掠める。


ギリギリに見えるだろうが特に危ないとは思わない、何故なら全て想定内であるから。


「…シッ…」


後は同じ事の繰り返し、高いガードの真ん中目掛け軽く左を伸ばし、相手の後の先を取るだけ。


軽くでもパンチを当てると、何となく相手の次の行動が予測できるから不思議だ。


(…下から…かな?)


潜り込もうと体勢を低くした所に、少し強めの右を置く。


そして打った後はその場にとどまらず、しっかり動き相手のパンチを空振りさせた。


(…息上がってきてるな。まあ、これだけ空振り繰り返せば仕方ないけど…。)


パンチで効いた素振りというのはあまりないが、特にタフネスだという訳では無いだろう。


単純に俺が効かせるパンチを打っていないだけだ。


相手が元気なうちにそれをやろうとすれば、運悪く相打ちになるかもしれない。


そうなれば、あの強打を受けた俺が倒されてしまう事も充分あり得る。


(…そんな馬鹿な事しないけどね。味方がいないってのも悪い事じゃないな…盛り上がりを気にする必要も無いから。)


俺はこんなに図太い神経をしていただろうか。


もしかしたら只の開き直りかもしれない。


普通にやっていては、絶対に勝てない存在がいるという事を知ってしまったから。


俺が本気で上を目指す為には、結局こういうやり方しかないのだろう。


そう思うと、やはり胸の内に何かもやっとしたものが広がる。


そしてゴングが鳴り、観客が何かを言っているがどうせ分からないので関係ない。







「…このままで良いよ。ボクシングは打たせずに打つ事を競うスポーツだ。これで良いんだ。」


恐らくは会長も分かっているだろう。


このやり方ではお客さんを呼べないという事実を。


だが、それも大きなタイトルを取れば別、必ず評価してくれる人はいる。


それまで自主興行は控え、只々着実に実績を重ねていく流れ、それも悪くはない。


まあ、相手が見つかるかどうかが一番の懸念だが。


「ははっ…本当に余裕だね。何て言うか、安心して見ていられる。」


うがいを済ませ、及川さんが洗ってくれたマウスピースを銜え立ち上がる。


余裕という表現は恐らくは正しくない。


こう見えても必死なんだ。


自分が生き残る為にどうすればいいのかを、常に考えながら戦っている。


戦術戦略は会長が考えてくれるが、それでも実行するのが選手である以上、勝利へ繋がる流れは確立させておくべきだ。


ゴングと同時に駆け寄ってくる姿から、相手の余力が窺い知れる。


俺は一度踏み込むと、左を伸ばしながら今度はバックステップ。


相手が邪魔そうに払った所を右ボディストレートで合わせ、そのまま横をすり抜ける形で距離を取る。


振り向きざまに振り回して来るパンチを、下がりながらの左で制し、リングを大きく使い追ってくるよう誘い込むのだ。


もっともっと体力を使わせるのが目的なので、時々足を止めガードで受け止めながら、強いパンチだけはしっかり流す。


ここまででもう大体わかった。


この選手は確かに強いのだろうが、ボクシングにはまだ適応できていない。


何と言うか、全ての動きにムエタイの癖が抜けきっていないのだ。


分かりやすく言えば、距離感が足技ありきのそれ、ボクシングの距離じゃあない。


だから強振しても踏み込みが足りず、僅かに遠く簡単に避けられる。


避けられればパンチが空を切る事になる為、大きくスタミナをロスする事に。


確かムエタイは五ラウンド制、短いラウンドで勝負を決めなければならないので、そこまで長丁場を想定しての戦略は無かっただろう。


逆にこちらは、最初から十ラウンドやるつもりで立ち回っている。


この違いはとても大きい。


(まあそれでも、結果がどうなるかは別の話だけどね…。)

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