第九話 つまらなくても

「どう?向こうと変わらないでしょ?」


当日計量や検診も終え、俺は余りやらないリングチェックに勤しんでいた。


別にいいと言ったのだが、海外で試合するならやっておかなければいけないとの事。


「ああ、そうですね。特に変わった感じは無いですかね。」


そして軽くシャドーを流してから、控室へ向かう。


控室とは言っても板切れで仕切られただけの簡素な空間で、ここは日本ではないのだなと再認識させられる。


視線を巡らせると、同じ空間にムエタイでよく見る祈りみたいなあれをしている選手がおり、少し感動した。


そんな事を考える余裕のある自分に少々驚きつつも、椅子に座りバンテージを巻いてもらう。


海外だと互いに不正が無いかチェックしあうイメージがあったが、やはりタイトルマッチとかじゃないとやらないみたいだ。


「今日の気温二十八度だって、ついてるね遠宮君。」


会長は段取り確認などのため離れており、バンテージを巻くのは及川さんの仕事。


彼女の言葉通り本当についている、何故なら昨日の気温は三十六度でそれが当たり前という環境なのだから、


その暑さが続いていたら、中々に厳しい戦いを余儀なくされただろう。


「よし終わったよ遠宮君。後で係の人が来るだろうけど、取り敢えず体ほぐしといて。」


俺の試合まではまだ結構ありそうだが、念のためという事だろうか。


疑問はあるが、言う通りシャドーを始め体を解していく。







バンテージチェックも終わり良い感じに体もほぐれた頃、係の人がグローブを持って来て少し感触を確かめる。


今日の俺は青コーナー、こっちの方が似合っているような気がするのはおかしい話か。


このグローブはどこのメーカーだろうか、少なくとも日本製では無い。


とは言え、特に中身がずれていたり抜かれている訳でも無さそうで一安心、向こうはどうか知らないが。


「統一郎君、準備出来てる?もうすぐ行くよ。」


会長が戻ってきてそれほど経っていない頃、そんな事を言われ驚いてしまった。


予定では俺の出番はまだかなり先の筈。


「大丈夫だよね遠宮君?準備終わってるもんね。」


驚きはしたが既に体は解れており、及川さんの言う通り準備万端、急ぎグローブを嵌め後に続いた。








入場も今までとは雰囲気からして違う。


カラフルな広告が天幕の壁を覆い、入場テーマが流される事も無く、とにかくお客さんとの距離も近い。


少し体を斜めにして入らなければならなかったほどだ。


会場に漂う雰囲気は経験した事の無いもので、リングをぐるりと囲み座る観客。


その後ろは柵で仕切られ、立ち見の客が大勢身を乗り出している。


さっきまでは落ち着いていたはずなのに、急に心臓がバクバク鼓動を速めたのを感じた。


「何があっても動揺しちゃ駄目だよ。頭に浮かんだ疑問符は全て無かった事にした方が良い。」


会長は俺がリングに上がる直前、そんな事を語るので頷き深呼吸。


「そうそう、全て経験だと思って。全部糧にしてやるくらいの気持ちでやればいいよ。」


リングに上がりコーナーに背を預けると、今度は及川さんから。


相手のサムット選手は既に対角線上に控えており、中々精悍な顔つきをしている。


何となく軽快な口調でリングアナが選手紹介、軽く手を上げ応え、いよいよかと唾を飲み込んだ。







熱気が体力を奪っていく気がする。


今日が真夏日であったなら、かなり厳しかったかもしれない。


「ラフファイト気を付けてね。いきなり来るから。」


会長の声に頷くと同時、ゴングが鳴った。


挨拶の左を伸ばすと向こうも受けてくれたので、ひとまず安心。


などと言っている傍から、いきなり踏み込んで振り回してきた。


(危ねぇ~会長に言われてなかったら呑まれてたかも…。)


バックステップで躱しながら左を突き考える。


(初心…そもそも俺の強さってなんだっけ…リードブロー…いや、それだけじゃない。)


不用意に伸ばした右を弾かれた時、その痺れる感覚で悟る、この選手は強打者だ。


無意識に相手の踏み込みに合わせ、下がりながら左を合わせる。


力の入っていないパンチだったが、上手く相手の勢いを殺せたようだ。


(そうだった。俺の強みって…下がりながらのパンチも強いって事じゃなかったか?)


厳密にいえば左、会長は新人時代、この下がりながらのパンチを無意識に染み込ませてくれた。


(そうだよ。俺はこのやり方で勝っていたんだ。)


お客さんを呼ばなくてはならないという事情があり使えなかったが、俺は元々アウトボクサー。


それも派手な事はせず、こうやって左で相手を制しポイントを重ねるタイプの選手だったはずだ。


相も変わらず、相手はブンブンとラフなパンチを振り回して来る。


軌道が読みにくい変則型で、間合いに入ったなら事故も起こりうるだろう。


だがここは敵地、勝ちのみに拘ってもいい場所だ。


「…シッシッシッシィッ!!」


左、左、左、左ストレート、全て下がりながらのパンチ。


最初の三発はガードをこじ開ける為のもの、本命は最後の一発、綺麗に入った。


解説の声がマイクを通し会場に響き渡り俺にも聞こえる、何とも不思議な空間。


相手を見やればムエタイの癖が抜けていないのか、非常にガードが高い。


いや、高すぎる。


(そのガードじゃあ、内側から打たれちゃうよ。)


恐らく今までの三戦、この強打でねじ伏せてきたのだろうが、ボクシングはそんなに甘くない。


前に出てくる相手の額に向け当てるだけの左、つっかえ棒のようにしながらバックステップ、強振してくるが空を切らせる。


「…シッシッ…シッ!!」


体勢を見て緩急をつけた左三連打、一番強く撃った三発目がヒット。


そこで一ラウンド終了のゴングが鳴った。






「バッチリ。僕が何も言わなくても分かってたね。それでいいんだ。自分が一番活きるボクシングをしよう。」


頷きながら、軽くトントンと足踏みし具合を確認。


大丈夫、攣ったりする気配は微塵もない。


体が軽く感じる。


「君は元々強かった。では何が足りなかったか。簡単な話、適性階級じゃなかったってだけの事だよ。」


俺は立ち上がり、差し出してきたマウスピースを銜える。


軽く感じるのは体だけではない、心の枷も外れた気がする、何故だろうか。


及川さんは言った、デビュー戦と同じ気持ちでと。


その通り、今俺はスタートラインに立っている。


父の背中という幻影を追いかけるのを止め、本当の意味で始まった自分の為のボクサー人生。


この試合は、つまらない試合と言われるだろう。


それでも良いんだ。


背伸びして潰れるより、俺はもっと長くボクシングをやっていたい、そう気付いたから。


でも何故だろう、胸の内に何かもやっとしたものが残るのは。


二ラウンド目のゴングが響く、解説が異国の言葉で何かを言っているが分からない。


おかしな話だ、今の俺は、今までで一番落ち着いているのだから。

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