第八話 初心忘るべからず
ジムで体を動かした後、ソムチャイさんはわざわざホテルまで送ってくれた。
既に日は落ち並ぶ灯りに目を惹かれ外を見やると、屋台が立ち並んでいるのが目に入る。
余り日本では見ない光景、こういう状況でなければ是非寄ってみたかった。
そうして夜景を眺め走る事十五分ほど、到着した場所にあったホテルは十階建てくらいだろうか、一見したらマンションに見える佇まい。
ひび割れたりはしていないものの、無機質な印象を受ける白く塗られたコンクリート造りだ。
だが中に入ると意外に綺麗、印象だけで物事を考える自分の癖を再認識。
ロビーで会長から五十バーツ紙幣を手渡され、何かと思い確認する。
「案内係の人に渡して、チップだよ。」
馴染みのない文化で頭の隅にすらなかった。
部屋まで案内してくれた係の人に渡そうと思ったが、どうにも気恥しい上に渡し方が分からない。
結果、表彰状を手渡すような形になってしまい、互いに苦笑を浮かべ合う
俺の部屋は会長と同室、当然及川さんは別の部屋だ。
「さっき量った時にもうリミット丁度位だったよね?」
「あ、はい。」
「そっか、じゃあ少しだけ軽めに食事とろうか。」
今まで計量日前日に食事を取れた事など無い為、少し驚きの表情で見つめ返してしまった。
「うん。そこの屋台であまり脂っこくない麺とか良いんじゃない?及川さんも連れてさ。」
そして三人で外を歩きやってきたのは、先ほど見た屋台が立ち並ぶ場所。
美味しそうなものが沢山あり食欲を刺激されるが、肉はなるべく避け軽いスープと麺料理を注文した。
だがやはり不安が先行し、半分食べた所で会長に譲る。
その後は大人しく帰って休み、明日に備える事にした。
翌日、渇きからか思いのほか早く目が覚めてしまう、やっぱりこちらは暑い。
(苦しいけど、余裕はあるな。もしかしたらこれが通常の減量なのかも。)
叔父の言葉が思い出される、過度な減量にメリットなんかない、という言葉が。
体重を量りたいと辺りを見回すが、残念ながらこの部屋に体重計は置いていない。
だがまあ大丈夫だろう、そう信じる事にした。
俺は多少の不安を抱きながらベッドの上で体を解すのだが、会長が中々目を覚ましてくれない。
まあ、こんな早朝から計量をやる訳でも無いので別にいいのだが。
(そういえば、相手の情報ほとんど知らないな。)
そうは思ったが、出たとこ勝負で何とかなる気もする。
その後、会長も目覚めゆっくり準備してから及川さんと合流し、またもソムチャイさんのお世話で計量会場まで送ってもらう。
道路が混みあうらしく、かなり早めの出発だ。
会長たちは相変わらずの親密具合、そこから察するに、こちらの選手を向こうの興行に招く事も考えているのかもしれない。
車で数十分程度の場所にある市庁舎前に設置された、大きな天幕。
その中には特設リングがあり、囲む様に観客席が作られている。
多くの報道陣が集まっており、メインイベントを務める地元選手の人気ぶりが伺え、テレビ中継も入るらしい。
俺には関心ないだろうと思ったのだが、結構写真を撮られたのは意外、相手選手が知られているからだろうか。
そして確認を取ってからリング脇の秤に乗ると、一発OKのサイン。
車内で会長が言うには、秤がおかしい可能性もあるので、オーバーしても動揺しない様にと釘を刺されていたが、杞憂だった様だ。
「わぁ、凄い報道陣の数ですね。」
経口補水液を口に運ぶ俺の視線の先には、ベルトを肩にかけた王者の姿、挑戦者と並び報道陣に応えている。
あの選手は確かこれが初防衛戦、少しだけ表情が強張っているように見え、明日まで引き摺る様なら少し厳しいかもしれない。
そう言えば俺の相手はと視線を巡らせていると、少し遅れて到着した様だが、計量自体はすんなりパス。
見た感じ俺より身長は少し低い印象、しかし褐色の肌が筋肉を美しく際立たせ強そうに見える。
じっと眺めていると思わず目が合ってしまい、互いに軽く会釈した後、こちらも場を後にした。
因みに相手選手の名は、サムット・フレッシュパーク。
サムットが名前、後半のフレッシュパークというのは企業名で、簡単に言えばスポンサー。
こちらのリング名の多くは、本名とジム名を組み合わせたもの、そして有名になるとスポンサーが付きジム名の所がスポンサー名に変わる。
つまり彼は、国際式の試合はたった三戦しかしていないにもかかわらず、既にスポンサーが付くほど期待されている選手という事。
補足情報として、タイ人のリングネームは日本では現在使用禁止となっている。
コロコロ名前が変わるので、戦績の情報収集が難しいとかなんとか。
計量が終わり向かったのは、昨日もやってきた屋台村。
ソムチャイさんにおすすめを聞きながら、昨日食べたいと思っていた鶏のモモ肉に齧り付く。
四人全員会長の奢りという事もあり、明日が試合とは思えぬ程の食べ歩き観光と相成った。
思えば、いつの間にかこういう時間を楽しむ余裕すら無くしていた気がする。
結局好きでやっている事なのだから、苦しい苦しいとそればかりでは心が弱っていくばかりではないか。
そんな事を思った。
まあ、それでも暴飲暴食はせず、少し消化させた後はソムチャイさんのジムで体を動かす。
昨日と同じく隅っこで控えめに動くのだが、はっきり言って凄く調子が良い。
だが、そんな俺に及川さんが釘を刺す。
「調子が良い時ほど要注意だよ。無理に倒しに行ったりとか絶対ダメ。今回はデビュー戦と同じ気持ちで臨も。」
確かに言われなければ、一ラウンド目から踏み込んでいきそうな気持ちになっていた。
一つ息を吐き本来の自分を取り戻し考える。
階級を上げ最初の試合、加え初めての海外、明確な課題を設けよう、と。
(初心に立ち返って、基本通りに完封出来ないかな?足使って距離取って自分のリズムで左を突いて、相手のパンチはしっかり外す。)
一か八かではなく、この先も勝ち続けられるボクシング。
そう思い、これを今回の課題に決めた。
練習後、会長が今この場にいるジム生たち全員、大体十人くらいに夕食を奢ると言い出し近くのレストランへ。
レストランとは言ってもこじんまりとした大衆食堂の様な感じで、ソムチャイさんの奥さんがやっているお店らしい。
意外と言っては失礼だが、クレジットカードも使える様だ。
六つ程度のテーブル席にそれぞれ座りメニューを眺めると、やはりこってりと脂の乗った肉が食いたくなる。
だが、明日の試合を考えればそれは避けるのが無難と、周囲の食欲旺盛な様を見つつ、ささみを使ったあっさりめの麺料理で我慢した。
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