第七話 異国へ

「おお…飛んだ。」


六月二十二日、やはりパートさんの代わりは見つからず、俺の都合でギリギリの出発になってしまった。


人生で初めてとなる空の移動、正直墜落しないかとハラハラするのは俺だけだろうか。


こういう時は科学的に物事を考えれば落ち着く。


車の運転は毎日しているが事故を起こした事は無く、飛行機の事故率はそれ以下らしい。


ならば大丈夫、そう自分に言い聞かせるのだ。


因みに当然と言っては何だがエコノミークラスで、移動費は主催側が出してくれるようだ。


隣に座っているのは及川さん、通路挟んで会長も座っており、見慣れた顔があると安心できる。


今回牛山さんは他の選手の練習を見てもらう為、向こうに居残り。


あの厳つい顔でミットを持たれると、迫力だけなら会長を遥かにしのぎ、地声の大きさも相まって檄が飛ぶと結構気合が入る。


佐藤さんの試合も二週間後に決まっているので、緊張感のない練習をさせる訳にはいかないのだ。


とは言え実の所、当初は及川さんが残る予定だったが、牛山さんが大の飛行機嫌いという事もあっての判断である。


そんな状況、負けたら色々言われそうなので、何が何でも良い報告を届けねばなるまい。


「統一郎君、眠れそうなら眠った方が良いんじゃない?」


外を眺め眉を顰める俺を気遣ってか、及川さんが語り掛けてくれた。


あちらを出る際に量った体重は六十二㎏ジャスト。


一週間キープするのは思いのほかきつかったので、次からはもう少し上手く落とそうと決意する。


目的地はバンコク、近隣の空港から直行便は無かったので、一度帝都まで向かってから昼前の出発だった。


正直かなり疲れる。


予定ではあと六時間ほどは空の旅を満喫せねばならないらしく、それを考えると少し具合が悪くなってきた。


「…膝枕してあげよっか?…やっぱり子供扱いされるのは嫌?」


俺は心遣いだけ有難く頂き、静かに瞼を閉じるのだった。










到着した時刻は日本時間で十五時前、時差は二時間程度だからこっちは昼過ぎといった所。


飛行機の発着場を眺めていると、二人に促され俺もガラガラとキャリーバッグを引き速足で向かう。


空港はとても広く綺麗、もう少し汚いかと思っていた自分を少し恥じた。


出入国検査は日によって凄く混むと聞いていたが、見た感じそこまででは無さそうで一安心。


「さ、さわっでぃ~…」


伝わっているのかいないのか分からないが、係の男性は少し微笑んでくれた。


しかし頬がげっそりとこけているせいか、何度か写真と見比べてから通過許可がおりる。


そしていざタイ国へ。


「うんと、どっちへ行くんだろうね。ちょっと待っててね。」


ピカピカのタイル、民族衣装っぽい服装をした女性の看板などもあり目を引く。


風景を眺めくたびれた心を慰めながら、俺は思考を放棄し黙って付いて行く事にした。


途中で両替などを挟み漸く外へ出れそうな場所までやって来る。


だが道中色々と気になるものがあったので、帰りの時にでも余裕があれば見て回りたいものだ。


そんな時ふと思う、いつもならこんな事を考える余裕さえなかったなと。


空港から外に出ると、漸く太陽の光を浴び少し解放感に包まれるがとにかく暑い。


聞けばこれから会長の知り合いが迎えに来てくれるとの事で、少々歩いた場所でしばし待つとの事。


そして十五分ほどは待っただろうか、会長が珍しく大きな声を響かせた。


「お~~っ!ソムチャ~イっ!」


視線の先には、褐色でにこやかな笑みを浮かべる男性。


「ナルセェ~、ヒサシィ~ブリ。」


この男性ソムチャイさんは、以前会長と試合をした経験があり、それ以来親交を持っているという。


自己紹介は車中でとなり、所々さび付いた日本車のトランクへ荷物を詰め、いざ出発。


助手席は当然会長、後部座席に俺と及川さんが乗る。


ソムチャイさんは当然日本語は殆ど分からない為会話が成立していないが、会長と話す姿は不思議と楽しそうだ。


眺める景色に広がるのは、どこもかしこも車、車、車。


良く見知ったコンビニが結構あるのには驚くが、大きな道路に出てからはあまり進んでいない様な気がする、大丈夫なんだろうか。


そんな事を考えていると、及川さんが耳打ちしてくれる。


「ライト級の元東洋王者らしいよ。凄いよね。」


知ってしまえば、先ほどまで只の陽気な人にしか見えなかった姿が、急に歴戦の勇士に見えてくるから不思議だ。


会長との会話は相変わらず日本語とタイ語、通じている訳も無いが笑うタイミングは同じ、何故だろう。


拳を交えた者同士だけに通ずる何かがあるのかもしれない。







車に乗り二時間と少し、どうやら県を跨いで移動した様だ。


眼前には正に下町と呼んで差し支えない風景、幅の狭い道路の路肩に停める車やバイクの数に異国感を感じてしまう。


そして辿り着いたのは、路地にある古びた三階建てのビル。


しかしこんな遠くまで送ってくれる間柄とは、一体どういう関係なんだろうか。


一階がボクシングジムで、上の階には何も入っておらず空きテナントなのだろう、所々ひび割れている外観が中々趣深い。


当然エアコンなどなく、いくつかの扇風機が回っているだけ。


年齢様々な選手たちが数多くおり、日本のジムとは違う野心溢れる獣染みた瞳を覗かせていた。


補足しておくと、ボクシングジムとは言うが、国際式と呼ばれる通常のボクシングに加え、キックの選手も入り混じり練習している。


ここで少し体を慣らしてからホテルへ向かうという流れの様だ。


ジム内にはサンドバックがいくつも吊るされているが、全てボロボロで中身が今にも零れてしまいそう。


それに向かいパンチを放ち、キックを放つ者達の迫力たるや、中々向こうでは拝めない。


何故だろうか、俺は知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。


「何か嬉しそうだね。どうしたの?」


「いえ、何と言うかこの空気…落ち着く気がして。」


「ああ、遠宮君も負けられない戦いばかり繰り返してきたから、共感する所があるのかもね。」


彼らの場合は生活そのものが掛かっており、俺の場合とは厳密に言えば違うが、ここで生きると決めたその覚悟は分かる。


ソムチャイさんと話す会長に視線で確認を取ると、俺はバンテージを手早く巻き、外壁と同じくひび割れている床に尻を付け柔軟を開始した。


そして準備を終えると流石に真ん中で堂々とは出来ず、隅っこの方で気合を分けてもらう様に眺めながらシャドーをこなす。


やはり以前とは余裕が違い、計量直前の今でもそう簡単に息切れを起こす事はない。


苦しいが、これは寧ろ感覚を研ぎ澄ます前向きな材料にもなっている様だ。


感覚が鋭くなっても体が付いて来ないでは話にもならない。


簡単に言えば、一つ下の階級でやっていた時の俺と戦っても、恐らく負けないだろうという事。


鋭くなった感覚に体がしっかり付いて来てくれるのだ。


気付けば、傍でソムチャイさんと会長が並んで俺を眺めている。


「…彼は記憶にとどめておいて損の無い選手だよ。」


会長が語り掛けると、伝わっていない気もするが笑顔で頷くソムチャイさんの姿があった。

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