第六話 復帰戦はどこで?
「え?タイですか?」
五月中旬の夕方過ぎ、会長から次の試合に関する情報を告げられる。
とは言え、飽くまでも選択肢の一つという意味であり、嫌なら他を用意するとの事。
相沢君の試合を見てからというもの、俺は早く試合がしたくて堪らなくなっていた。
それで今まで催促したことはないのだが、珍しく試合がしたいと会長に申し出てみたという流れ。
「うん。六月二十四日、木曜日だね、スーパーフライ級の世界タイトルが向こうであるんだけど、それの前座の十回戦でどうかって。」
高橋選手に敗れ、ライト級に転向する意思を表明してから初めての試合。
確かに大きな会場を埋めるのは難しいかもしれない。
「統一郎君ね、ライト級の東洋ランキングに載ってるんだよ。あ、六位ね。」
実はというと変な話だが、この間まではスーパーフェザー級のOPBFランキング二位だった。
それを鑑みてという事だろうか。
「相手はまだ三戦しかしてない選手だけど、国内ランキングは二位。ムエタイで六十戦以上経験があって、地元じゃ有名な選手みたいだよ。色々事情があって本来の相手が出られなくなったんだって。」
飄々と語る会長だが、勝ち目のない戦いであれば話を持ちかけることはないだろう。
何とか映像を取り寄せ研究し、勝ち目があると思ったから通してる筈だ。
ならば俺の答えは決まっている。
「問題ないです。ちょっと不安もありますけど、やりたいです。」
意思の確認も済んだ所で練習に入るのだが、まだ佐藤さんは戻ってきておらずやはり少し寂しい。
練習メニューは依然と殆ど変わらず、今はとにかく持久力を取り戻す事が先決だ。
普通は階級を上げるとなれば、筋力増強などの体作りもやるのだが、俺の場合は会長曰く今以上の増強は必要無いとの事。
まあ、元々パワー勝負で勝ってきた選手ではないので、それには同意。
というよりも、減量によって本来備わっている力が削がれていたとも言っていた。
そう言われれば確かに、ここ数試合はいつもスタミナを気にしてばかりで、余裕のある組み立ても出来ていなかった気がする。
そのせいで攻め急いだり、簡単に言えば大局観を損なっていたかもしれない。
手探りの状況でいきなり海外というのは無茶にも見えるが、取れれば自信に繋がる。
目標は高く持たなければ意味が無い、しかしライト級の世界上位陣に俺が食い込むのは並大抵では無理だ。
それこそ、一度でも敗れたら道が閉ざされる戦いを繰り返す事になる。
加え必要なのは話題性、皆が見たいと思える選手になる事。
そうでなければ、一生声が掛かる事さえないだろう。
新たな目標が出来た俺は、一発気合を入れてから練習を開始した。
数日後、来月に試合がある旨を店長に告げると、
「そっか…うん、大丈夫。」
実は今、俺が務めるドラッグストアは人手不足。
パートの奥さん方が介護などの理由で立て続けに二人辞めてしまい、シフトに大きく穴が出来てしまったのだ。
何とか今は俺が週六で出勤して穴を埋めているが、現状が続くとかなり厳しい。
これまで協力を惜しまなかった店長に負担を掛けない為にも、現地入りは計量日の前日にすべきだろう。
減量も今までよりは多少楽になる筈なので、直前までは出勤も考えるべきだ。
(そうだ。後援会の伝手で、誰かパート先探してる奥さんとかいないか聞いてみるか。)
自分で言うのは何だが、これはいいアイデアなのではなかろうか。
翌日、さっそく会長にこの事を相談してみた。
「なるほど、酒井ドラッグさんにはいつもポスター貼らせてもらったり、お世話になってるからね。少し聞いてみるよ。」
「余計な仕事増やしてすみません…。」
「良いんだよ。寧ろそうやって周りが見えているって知れれば、少し安心できるから。」
復帰戦というのは、心の定め方が存外難しい。
特に俺の場合、それに階級転向も加わるので中々目標が定まらなかった。
だが志を新たにした今、周囲の問題事を片付けて集中したいという思いも強い。
試合まではまだ一月以上あるので、新しいパートさんが見つかれば十分に間に合う計算だ。
「じゃあ会長、よろしくお願いします。あ、出来れば牛山さんも心当たりに声掛けてくださいよ。」
「俺はついでかよ…まあ、分かった。カミさんに聞いとくわ。」
帰路に着く二人に一礼した後は、残ったジム生で掃除してから俺も帰宅した。
六月始め、佐藤さんがこちらに復帰し、ようやくいつもの風景が戻ってきた。
「…ご迷惑おかけしました。」
申しわけなさそうに語る言葉を遮る様に、響くミットの音。
誰にだって生活があるのだから、仕方のない事だ。
「あ、佐藤さん、俺試合決まってるの知ってます?」
「ああ、はい。何でもタイに行くとか。気を付けて行ってきてくださいね。そういえばパスポート持ってますか?申請は済んでますか?あれ届くまで結構掛かるらしいですよ。」
「え、マジっすかっ!?」
後日、パスポート発行に多少手間取ったが、何とか窓口に申請。
どうにかこうにか出国前には受け取れそうだ。
どうやら会長も失念していたらしく、ゴメンゴメンと言いながら乾いた笑みを零していた。
危うく開始のゴングを聞く所か、リングに立つ事すら出来ずに終わる所、佐藤さんが返ってこなければ一体どうなっていたのだろうか。
六月中旬、減量方法を変える事無くいつも通りやっていると、練習後の計量で少し予定が狂う事態が発生。
「…六十一,一キログラム…リミット割ってるじゃん…どうすんのこれ…。」
こけた頬と乾いた唇で、そんな事を呟いてしまう。
試合までまだ一週間以上あるというのに、既にリミットを下回ってしまったのだ。
いつもはここから削る作業が特にきつい、となる時期。
ただならぬ様子を受け、ジムのみんなが集まって来る。
「どうした坊主?」
「あ、いや…これ。」
「あ~、ちょっと任せすぎたかな。まだ一週間以上あるもんね。キープ出来る?」
「まあ…はい。いや…してみせます。」
最近、会長は本当に忙しそうであちこち出掛けている。
俺も含め、皆の道を作る為に奔走しているのだろう。
「出国前にプラス一㎏くらいになるのを目安に、頑張ってみて。」
不測の事態ではあるが、悪い方向に転がっている訳では無い。
俺は力強く頷き、頭の中ではこれからの食事の予定などを描きだしていた。
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