第二話 環境

三月中旬、もう完全に痛みは引いた。


正確に言えば、痛み自体は三週目に入る頃になくなっていたが、周囲からの言葉もあり念のため激しい運動は控えていたのだ。


その間動けないのは仕方ないが、体が硬くなるのは嫌だったので、亜香里に協力してもらい足の筋を伸ばすストレッチなどは行っていた。


そして今日から叔父や会長の許可を得て、久しぶりの早朝ランニングを再開する。


スウェットを着て表に出るのだが、いきなり走るのではなく先ずは歩きながら違和感が無いか確認作業。


もう春も近く、景色からは雪が消え緑が目立つようになってきた。


じきに桜も咲くだろう。


前屈などをすると分かるが、かなり体が硬くなっている、一応出来る事はしていたつもりだが中々現実は厳しい。


一日サボったら取り戻すのに三日かかる等とよく言うが、その理屈で言えば三月かかる計算、道は長そうだ。


そんな思いを抱えながら駆け出すと思いのほか快調な出だし、だがそう思ったのも束の間、やはり減量時以外記憶にないほど息が上がるのが早い。


神社の石段を駆け上がり二往復目に差し掛かると、もう脇腹が痛くなってしまい、情けなくも境内のベンチに腰を落ち着ける。


「調子はどうかね?」


声のした方へ視線を向けると、そこにいたのは明日未さんのお爺さん、確か名前は拓三さん、この神社の宮司だったはず。


「ははっ…これは情けない姿を見られちゃいましたね…調子は見ての通り運動不足です。」


俺がそう語ると、隣に腰を落ち着け一緒に早朝の境内を眺める。


このゆったりとした雰囲気、凄く好きだ。


眺めていると遠くには箒で掃いている女性がおり、誰かと思えば明日未さんのお母さん。


早朝から元気いっぱいで、俺にブンブンと手を振って挨拶してくれた。


俺も軽く頭を下げ応えると、横から語りかける声。


「遠宮君は、今二十一だったかね?」


「え?あ、はいそうですね。そう考えると、今までが上手く行きすぎていたのかもしれません。」


「ボクシングの事は分からないが、世間じゃあ大学出てスタートラインといった者も多いだろう。」


「そうですね。会長にも言われています。負けてからが本当の勝負だよって。だから、あまり急ぎ過ぎない様にしてます。」


「それがいい。君はきっとこれから輝ける若者だ。頑張りなさい。」


拓三さんはそう語ると、丁寧にお辞儀をしてから場を後にした。


何となく言葉に重みが感じられ、俺も一礼すると気合を入れ直しもう一度駆け出した。









その日の夕方仕事も終わりジムに向かうと、丁度佐藤さんの車もやってきて隣り合わせで停める。


「佐藤さん、今日は早いんですね。」


「うん…ちょっと会長に大事な話をしなきゃならなくて…。」


語る表情は、力ない笑みという表現がまさにぴったりな雰囲気を纏っていた。


訪ねたい衝動に駆られるが、本人が敢えて会長にと言っているので軽々に聞いていい事ではない気がする。


その場では頷くだけに留め、引き戸を開け中へ。


「「「チャ~~ッス!!」」」


すると、三人の練習生が元気よく声を響かせる。


この一月、多くは無いが見学者もやってきており、その中の何人かはこうして正式に通うようになった。


三人は全員が高校一年生で、幼馴染らしい。


通い始めてまだ一週間程度なのでスパーリングなどはまだやる段階にないが、真面目に取り組んでいるのが見え、その日も遠くはあるまい。


リング上には試合まで一月余りとなり、気合の入ったパンチをミットに叩きつける明君の姿。


会長は一瞬こちらに視線を向けるが、今は目の前に集中。


その代わりと言っては何だが、その脇で腕組みし眺めていた牛山さんが語り掛ける。


「よお、坊主は今日から本格始動か。最初から飛ばしすぎんなよ。」


分かってますよと一言返し、奥に腰を下ろすと久しぶりにバンテージを巻き始める。


「巻き方忘れてねえだろうな坊主?」


冗談交じりに語る牛山さんだが、一瞬本当にどこから巻くのか迷ってしまい思わず苦笑してしまう。


そしてブザーが響きインターバルに入ると、会長はミットを牛山さんに預け佐藤さんと話し始めた。


「佐藤君、外出る?」


「いえ、別に聞かれて困る話でもありませんし、遠宮さんにも関係ある話ですから。」


そうして会長も横に腰を下ろし、俺も耳を傾ける。


「で?異動があるって話だけど、正式に事例が下りたの?」


「一応、急ですけど正式な話みたいです。向こうでちょっとした問題が発生して、管理できる人が足りないらしくて。」


断片的に聞こえた話を要約すると、現場責任者みたいな役の人が事故で怪我をして入院したと。


それで誰かが空いた穴を埋めなければならないのだが、殆どが派遣と契約社員で回していた為、正規雇用で作業を指導できる人が限られるらしい。


そこで白羽の矢が立ったのが佐藤さんという流れ。


異動先は南に隣接する陸前県で、うちよりも大きなジムがあったはずだ。


「それはずっとっていう話?」


「いえ、元々そこを担当していた人が現場復帰するまでって話らしいです。」


「なるほど…ずっとっていう話なら移籍の話を進めないとならないけど…うん、取り敢えず分かったよ。四月からね?」


「はい。足を骨折したとの事なので、復帰にはそれなりの時間が掛かるらしくて…」


申しわけなさそうに項垂れる佐藤さん。


だが、俺は何故か変な事を語りかけてしまう。


「佐藤さんって、かなり仕事できるんですね。」


「え?何で?」


「いやだって、佐藤さんてまだ二十三とかですよね?普通、現場責任者ってもっと年齢行った人がやりません?」


「う~ん、他を知りませんからね…でも、何だかんだもう五年以上やってますし、やっぱりそれなりには。」


佐藤さんが一時的にせよいなくなるのは、俺にとって恐ろしく痛手だ。


実際、本当の意味で俺と実戦形式のスパーが出来るのは、うちでは彼だけ。


まあ、そこは出稽古や相手を呼ぶという手もあるが、後は予定の兼ね合いか。


「そういえば異動ってこれからもあるんですか?一時的なやつじゃなくて。」


「今回は色々とイレギュラーな事態が重なっただけだと思います。うちの会社は県を跨ぐ異動って少ないんですよ。元々そんなに大きな会社でもありませんしね。」


今の仕事は辞めボクシングに全てを賭けると言えるなら格好いいが、それは只格好良いだけだ。


安定した生活や誰かとの未来を考えるなら、軽々にそんな決断は出来ない、例えばこういう事。


「そう言えば佐藤さんって結婚願望あります?」


「あるって言えばある…かな?一応、交際している人はいるんだよ。」


「あ、そうなんですか。じゃあ、正社員っていう身分は大事だもんなぁ。」


これは俺だからこそ実感する話でもある。


タイトルを取った後ネットを覗いた時、所詮フリーターとかそんな声もいくつか散見した。


だがそれはあくまで国内タイトルだから言われるだけで、これが世界ならまた違うだろう。


そして正直な事を言えば、佐藤さんは世界に通用するボクサーになれると思う。


可能性という意味では、階級などの要因も相まって俺よりはるかに高い。


だからこそ、もし辞めるという決断をしそうになったら陣営全員が止める筈。


しかし決断するのは飽くまで本人、そして例えその意思が無くとも環境が許さない場合もある。


そういう意味では、周囲が支えてくれる俺の環境はまさに恵まれている、そう実感した。

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