五章 見上げる世界

第一話 再スタート

「暇だなぁ…何かやる事欲しい。」


時刻が午前十一時を回った頃、俺は居間で寝そべったまま痣だらけの顔で呟いた。


これだけでも右脇腹が痛み、あの剛拳を思い出してしまう。


試合から三日が経った今、故障を直す為に安静にしているのが俺の仕事


ドラッグストアの方は、今週まで休んでくれて構わないと言われている。


「ゲームとか…やらないの?無料で出来るの結構あるし…」


隣には愛猫スイと戯れる妹の姿。


スイは少しずつ俺にも慣れてきているのか、こうして寝ていると指先を鼻でツンツンしてくる、可愛い。


どうやら迫られるのは苦手なようで、こうして受け身でいれば向こうから来てくれるようだ。


しかし亜香里だけは例外らしく、追いかけっこのような遊びをして楽しそうにしているのをよく見る。


先ほどやる事が欲しいとは言ったが、この間の試合を分析する等という事は一切していない。


見ると自信を失いそうで怖いからだ。


同様の理由で、ネットの評判などにも一切目を通せずにいる。


そして上体を起こすと、


「走りに行ったりしちゃ駄目だよ?筋トレも駄目。そう言われてるんだから。」


そう、叔父からも会長からも、この一月はとにかく治す事に専念しろと言われている。


そのお目付け役が亜香里という訳だ。


こうして思い返せば、ロードワークをしないなど一体何時以来かも思い出せない。


今までは試合後でも、必ずそれだけは欠かさずこなしてきていたので、不安が心に積み重なってしまう。


「…いや、そう言えば御子柴戦後は病院に運ばれて休んだか…。」


動けないならせめて、体重が増え過ぎないよう気を付けねばなるまい。


次からはライト級、一つ上の階級に上げる事が決まっているとはいえ、苦しい事には変わりないのだから。


「もうお昼だね。私ご飯作るから、スイお願い。」


亜香里は、胡坐を掻く俺の膝上に愛猫を置いていった。


調子に乗って撫でようとすると逃げるので、俺からは何もせず好きにさせておく。








そしてすぐ後、お盆を持った亜香里がやって来る。


どうやら今日の昼食は肉うどんらしい。


卓で向き合い、いただきますと告げた後はズルズルとうどんを啜る音だけが響く。


そんな時、亜香里が告げた。


「あ、そうだ。あの…私、四月からはちゃんと学校行くから…。」


少し上目遣いにこちらを伺いながらの言葉。


その決断をしてくれたこと自体は嬉しいが、やはり不安は付きまとう。


「うん。でも、通うならもう一回一年生からになるよ?悪目立ちしちゃうと思うけど大丈夫?」


「…頑張る。」


決意に水を差すような言葉になってしまうが、これは絶対に確認しておかなければならない。


願わくば仲の良い友達などが出来て楽しい学園生活が送れればいいのだが、現実はそう簡単には行かないだろう。


昼食も済み、亜香里は同じく隣にいるが、今度はパソコンを開きどうやらゲームをしている様だ。


最近思う事がある。


例え学校生活が上手く行かず進路に悩んだとき、居場所になる場所を作ってあげられないかと。


具体的に言うなら、独立して何かお店でも開けないかと思っている。


候補に挙がるのは喫茶店、調べた限り必要な資格などもそれほど多くなく手を出しやすそう。


まあ、コーヒーなど殆ど飲んだ事も無い俺が一から勉強する訳だから、それなりの時間は掛かるだろうが。


スポーツ用品店なども考えたが、牛山さんに睨まれそうなので却下となった。


正直、俺がやるなら定食屋の方がイメージ付きやすいが、何となく亜香里は喫茶店の方が似合う。


だが全てはまだ先の話。


自身の道があやふやな癖に、人の心配など出来る身分でもないだろう。


だからこそ、これからが大事だ。


願わくば、俺を支えてくれる全ての人に、大きく眩い舞台に立った姿を見せてあげたい。


確かに今回どうしようもないほどの現実を知ったが、それも今更という話だ。


大きな壁を越えられるかどうかはさておき、越えようとしなければ何も始まらないのだから。









「少し外に出てくるよ。」


「…走っちゃ駄目だよ。」


「分かってるって…何度目だよ。」


夕方ごろ、訝し気な目を向ける亜香里に見送られ、俺はコートを羽織り外へ足を向けた。


二月中旬、氷点下近くまで下がった気温に踏み締める雪が、まだまだ春が遠い事を思わせる。


自然と足が向くのはジムの方向、運動不足解消も兼ねて歩いて向かう。


癖になっているのか、知らず知らずのうちに走ろうとしており、痛みでそれに気付く間抜けさ。


慣れ親しんだ景色が広がる場所には、サンドバックを叩く威勢のいい音がこだましている。


二つ並んだ同じ外観のプレハブ小屋、左が清水組、右が成瀬組。


まあそれは冗談で、この小さなジムに派閥などあるはずも無い。


大きなジムになると、担当トレーナーごとに派閥があると聞き及ぶがどうだろう、少し憧れるのは変な話か。


「あ、どうも、お邪魔します。」


軽めの口調で右のプレハブ小屋にお邪魔すると、明君が熱の入ったミット打ち真っ最中、佐藤さんはまだ仕事中だろう。


明君は、五月初旬に開かれる東洋タイトルをメインイベントに据えた興行の、前座に立つ事が決まっているらしい。


誰のというのは言わずもがな、相沢君のだ。


「おう坊主、こっちだけじゃなく隣にも顔出してやれよ?」


「分かってますよ。この後顔出しますから。牛山さんこそまだラウンド途中ですよ?」


そしてインターバルを告げるブザーが鳴り、丁寧に挨拶しようとする明君を制し構わず続けるよう促す。


その明君だが、彼は私立の大学に行きたいらしく、先週試験だったと聞いた時は大変申し訳なく思った。


一番大事な時期にかなり気を使う事も多かっただろう、俺がピリピリしていたせいで。


まあ、そんな時だというのに毎日練習に出てきていた事の方が驚きだが。


人それぞれ生活があって、抱えているものがある。


きっとそれは誰もが同じで、色々な人に支えられているからこそ、また立ち上がろうと思えるのだ。


外から雪を踏みしめるタイヤの音が聞こえたすぐ後、佐藤さんもやってきた。


相変わらず飄々とした雰囲気を纏っているが、彼もまた様々な葛藤を経て今ここにいる筈。


練習を眺め活気を身に浴びると、俺も早く体を動かしたくなってしまった。

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