四章最終話 まだまだこれから
荒々しさの一切ないスマートなボクシング、大海の凪を思わせる安定ぶり。
彼は勝つ為に必要な事しかしない、不必要な事は一切しない。
要らないパンチは打たないし、疲れる打ち方もしない。
己を理解し、相手を知り、『ほぼ確実な勝利』を『確実な勝利』へと繋げる。
恐ろしい強打とタフネスを誇り、一切油断もせず、相手には欠片の華も持たせない、まさに器が違う。
何をどうしようとも切り崩せるビジョンは浮かば無いが、それでも諦める事だけはしたくない。
鋭い踏み込みから飛んでくるのは痛烈なワンツー。
何とか衝撃を吸収し柔らかく流すが、眼前からは更に追撃。
腕が戻り切っておらず、避けるしか選択肢はない。
素早くバックステップするも、何かに押し返される、気付けば背中にロープを背負っていたようだ。
音はしっかり聞こえ、何度か受け止めた腕は痺れと痛みを伝えて来る。
右わき腹は動くたびに痛みを主張し、恐らく完全に折れてはいないがヒビくらいは入っているだろう。
相も変わらず相手に隙は無く、超人的な感覚も消え去った絶望的な状況。
それでも…
「…シッシッシッ…シッシィッ!!」
膝を着くには早すぎる。
「…っ!?」
苦し紛れの連打を冷静にガードされ、打ち終わりに飛んでくる鋭い左。
首の根元から後方に仰け反るほどの威力、鼻腔に血がつまり、空気の通り道を塞がれてしまった。
だらしなく口を開け呼吸を繰り返すも、まだ終われないと相手の右をギリギリ避け様、同時に左を被せる。
首でいなされダメージにはならなかったが諦めない。
「…シィッ!!」
鼻から流れた血が口に入り込み、パンチを打つ度に霧の様に赤が舞う。
一瞬、その血が相手の目に入り少し目を細めたのを確認。
そしてレフェリーが俺の血を拭かせるため、一時休止を告げようと歩み寄った瞬間、渾身の右を伸ばした。
(…今だっ!!汚かろうが何だろうが…今はどうでもいいっ!!)
だが、そんなに甘い相手でない事は誰もが知っている、勿論俺も。
「…ワァン…トゥ~…スリィ~……」
切れのあるダッキングで躱されると、続けざまに小さく振り抜いたアッパーを顎にもらい、真っ直ぐ腰から落ち膝を着いてしまったのだ。
それでも、まだ終われないと立ち上がる。
右に左に体が揺れるもロープを掴んで体勢を整えると、レフェリーが覗き込み意識の確認作業、俺は強がりその胸にトンと軽く左を突きだした。
何故だろうか、レフェリーの表情は困惑気味。
そしてセコンドに血を拭くよう告げる。
「統一郎君…よく頑張ったよ、これ以上は…」
止めようとする会長に視線で意思を告げ軽く笑みを返すと、俺は背を向けリングへと戻った。
「…ボックスッ!!」
景色が歪む。
不思議と痛みは感じないが、右足が上がらない。
鼻が血で塞がっている為、口をあけっぴろげの状態、みっともないなとそんな事を思ってしまった。
相手、高橋晴斗は相変わらずの表情で、ラッシュを掛けるでもなく一定のリズムを刻み迫って来る。
この期に及んで何一つ乱れないとは、やはりどうしようもない。
(…それでも…俺から参ったはしないけどね…。)
ここで生きると決めたんだ。
例え凡百であったとしても、才ある者には決して届かないと分かっていても。
だから…
「…シッシッシッ…シュッ!!シィッ!!シッシッシィ!!」
どんなにみっともなくても…
「…フッ!!シッシッ…ヂィッ!!」
試合が終わるその瞬間まで…
「…シィッ!!…シィッ!!…シィッ!!」
俺は戦うんだ。
高橋晴斗は、力任せな俺の攻撃を全て受け止めてくれた、初めて華を持たせてくれた。
躱すのも容易、カウンターを合わせる事も出来た筈なのに、それがどういった感情から来るものなのかは分からないが…感謝している。
そして返って来るのは、力みのない教科書通りの小さなコンビネーション。
俺も受け止めようと試みるが、どうやら俺にはその器が無いらしく、みっともなくも後方へフラフラと弾かれてしまう。
背には弾力のある感触が当たり、それがロープであると認識できた。
体重を預けた反動で、戦えと言われているかの如く中央へ戻される。
眼前に待ち受けているのは、最強の拳。
目の前に迫り来る、綺麗な姿勢から放たれる天才の一撃。
無駄な軌道など一切なく、今の俺には躱しようの無い、正に致命の一打。
俺は何故か口角を吊り上げ、笑ってしまっていた。
(ああ…終わりか…つええなぁ…。)
終幕を悟り、最後の一撃を受け入れる。
だが、その拳から俺を守ってくれる人がいた。
横から覆い被さる様にしてぶつかってきたその人は、俺を抱きしめよく頑張ったと語り掛けてくれる。
視線を彷徨わせ電光掲示板を見やる、残り時間はあと三秒。
だが、三秒のまま動かない、何故だろうか。
(…ああそうか…もう終わったからか。)
俺は肩を借り自陣へ戻ると、椅子に腰かけた。
目の前では次の王者、いや、真の王者へそのベルトが受け継がれている。
医務室へ行こうと言われたが、もう少し見ていたいと我が儘を言ってしまった。
そしてボーっと眺めていると、リングドクターらしき人の立ち合いの元、鼻にまた何かを突っ込んだかと思えば、今度は何かを詰めだした。
苦しい。
レフェリーから勝ち名乗りを受けた高橋選手は、こちらに歩み寄り何も告げず胸にトンと拳を当てる。
向こうとこちらの陣営が称え合う様に語りあう姿は、まさにスポーツマンシップ。
その後ろには悲しそうに眉を顰める三人娘の姿も見えたが、ラウンドガールがそんな顔をするのは駄目だろう。
大丈夫という意味も込めて、微笑み返しておいた。
「統一郎君、そろそろ戻ろう。」
確かに、敗者が何時までも居座っているのは違う。
俺は一度ライトを見上げると、振り返った。
牛山さんが頷き、及川さんも目に涙をためながら頷いた。
これで父が戦った階級とはお別れ、今度ここに立つ時、俺はどんな気持ちで対角線を眺めるのだろう。
ロープを潜り階段を降り、花道の両脇に集まる人たちの中には、泣きそうな顔をした叔父がいた。
そして妹もおり、その顔は涙に濡れている。
(…泣くなよ…俺はまだまだこれからだ。何度でも立ち上がれるから…。)
視線でそう語り掛けると、俺は喧騒を背に医務室へ向かった。
「君…会長さんに感謝しなきゃダメだよ~。調べて見なきゃ分かんないけど、折れてるのは軟骨、肋骨は多分ヒビだから一月もすれば治るんじゃない?でも最後の一発貰ってたら、どうなってたか分からなかったよ?」
医者が言うには、これ以上ないほど絶妙なタイミングで割って入ったらしい。
何でも軟骨が折れるのと鼻骨そのものが折れるのでは、色々と違うんだとか。
この後は病院に行って形を整える作業が必要との事。
そして取り敢えず血が止まったのを確認してからシャワーを浴びる事にしたのだが、腕を動かすたび右わき腹に痛みが走り、あのパンチの威力を思い出す。
初めての敗北。
普通なら気持ちが落ちて仕方ないだろうが、そんな姿は見せたくない。
俺の背を追いかける後輩にも、妹にも。
シャワーを浴びたまま壁に手を着き一つ息を吐くと、
「…まだまだこれからだ。しっかりしろ…。」
そう、静かに呟いた。
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