第三十一話 戦う理由
いつかの感覚を取り戻していた。
あの時、大劣勢をひっくり返した集中の極致。
だが相手は高橋晴斗、現役最強と呼び声高い怪物。
伸ばした腕を戻す引き手、その一瞬を見切り互いが鼻先数ミリでパンチを交わし合う。
向こうが前に出ただけ引き、弾幕を張りながら一瞬の隙を探る際どい攻防。
色も音も無い景色の中、こちらを覗き込むその瞳だけがギラギラ輝いていた。
表情は変わらないように見えるが、少しだけ喜色が浮かんでいるのは気のせいではあるまい。
この感覚が何時まで続くかは分からないが、最早先を考えても仕方のない状況。
行ける所まで行く、それしか選択肢はない。
この攻防で俺が意識するべき点は、なんだろうか。
(…触れさせない事…それが第一…後は…)
でかい一発を当てたい。
細かいパンチを積み重ねる、それは理想だがこの試合では無理。
決定打となるほど積み重ねる前に俺が沈む。
目の前には、左右に鋭くステップワークを繰り返しながら迫り来る怪物の姿。
その初動を見切り、動く先を正確に予測し左を伸ばす。
だが当たらない、ガードはしっかりと上げたままであり、攻撃に移る際どい瞬間を狙うしかない。
向こうの切れあるフットワークに対抗する為、こちらも細かくリズムを刻み、しつこくしつこくフェイントを交えながら左。
高橋が左側面を取ろうとステップを踏んだ瞬間、予測した到達地点にワンツー、同時反時計回りに大きくサイドステップからバックステップ。
その時、痛みは何も感じないが、右足が何かに引っ掛かるような感覚。
(…痛みは無くても限界はある…か。)
この不可思議な感覚が閉じた時、それは恐らくこの試合が終わる時だろう。
(…この男にデカいのを当てるには…体勢を崩すしかない。)
俺を見つめる高橋の目には、少しだけ炎が宿っているように見えた
絶えず足を使い左を伸ばし、何とか大きいのを放り込む隙を探るが一切ガードを緩めてくれない。
それ所か、動けば動くほど右足の違和感は大きくなっていくばかり。
集中も途切れてきているのだろうか、周囲の音が少しだけ聞こえ始める。
間延びした音、悲鳴の様な声に交じり聞こえるのはシューズがこすれる乾いた音。
大きい一発を当てるには、確実に当たる瞬間を見切る必要があるのだが、相変わらず一切大振りなどない堅実さ。
手を出してくるタイミングも、相打ち狙いではなく、しっかり打ち終わりを狙ってくる質の悪さだ。
何か聞き覚えのある音がしていると思えば、間延びしているが恐らくは拍子木。
残り十秒、俺は足を使い左を突いて回るが、その全ての動きを目で追われ大きな一発など撃てる隙は無い。
そして間にレフェリーが割って入り、ラウンド終了を悟った。
色と音が戻ってきた瞬間、激しい痛みが襲う。
同時に息苦しさも覚え、大きく口を開き呼吸を繰り返した。
「統一郎君、座って!…ちょっと痛いよ。」
会長はそう語りながら、少し眉をひそめ俺の鼻に何かを突っ込んだ。
激しい痛みと同時に夥しい出血が鼻から吹き出し、胸部を染め上げる。
いや、よく見ればその前からかなり汚れていた様だ。
(ああ…そうか。さっきの間延びした悲鳴みたいな歓声は…出血見てって事か…気付かなかったな…。)
会長は真っ赤に染まった俺の胸部を拭きながら、視線を合わせ首を横に振った。
それの意味する所は何か、分かり切っている。
続行不可能、試合を止めると言っているのだ。
だが、そればかりは承服できない、俺はまだやれるのだから。
「…会長、次のラウンドだけ…お願いします。それで無理だと判断したら…」
暫し見つめ合う。
右足が痙攣している事にも、その時気付いた。
こちらの空気を察してか、レフェリーが歩み寄り覗き込むと続行の意志を確認。
会長は一度俺の瞳を覗き、レフェリーに告げた。
「次のラウンドだけやらせてみます。」
その言葉を受け、俺は何となくリング下に目を向けてみる。
すると、目に涙をためた妹の姿が視界に映りこんだ。
(…なんのために頑張ってたんだっけ?勿論俺の為だ…いや、それだけじゃない…。)
もう一度心に火が灯り出すのが分かる、そう、俺は見せなければならないんだ。
現実は思い通りに行かない、残酷なこともある、それでも戦う姿勢と覚悟を。
戦いの先の決断なら逃げてもいい、だが、最初から諦めたり逃げるのは駄目だ。
セコンドアウトのブザーが鳴ると、俺はゴングを待たず前に進み出る。
(…集中…集中しろ…今要らないものは全て切り捨てろ。)
徐々に歓声が遠くなっていき、視界が狭まっていく感覚。
ゴングが鳴ったのかどうかも分からないが、それは相手が教えてくれる。
「…シィッ!!」
射程に入ったのを確認した瞬間、左ストレート。
当然引き手を追うように被せてくるが、伸ばした左が戻り切らぬうちに次の行動へ移る。
思い切った踏み込みで潜り込み躱すと同時、下から渾身の力で右を突き上げたのだ。
完全に見切られておりブロックに阻まれるが、初めて姿勢が崩れた。
この試合俺から踏み込んだのは初めてだったかもしれず、高橋の表情には驚きも混じる。
「…シュッ!!シッシッシッシィッ!!」
勢いそのままに左を叩きつけると、体に染み込んだ左右のショートストレートでまくし立てる。
その時ガードの隙間から見えた口元は、錯覚ではない、笑っていた。
嘲りではなく、獰猛な獣の如く。
瞬間、高橋は重力に逆らわず沈み込む様に重心を落とすと、左右のフックを上下に乱れ撃ってきた。
それはまるで、以前の彼を彷彿とさせるような暴力的なパンチ。
「…ぐぅっ……っぅ……くっ…ぁっ!!」
しかし依然と同じ訳は無く、一発一発にしっかりと体重が乗っており受けるごと左右に体が振れ、とても返しを放つ体勢を保てない。
俺はクリンチという選択肢が頭を過るが、それを払う。
何故なら、この試合では只の時間稼ぎにしかならず、結果は変わらないからだ。
だが体を完全に密着させれば、相手の強打を削げることも確か。
(思い出せっ…俺が…やられてっ…嫌だった事っ。)
迫り来る豪打に臆病者が顔を出しそうになるが力づくでねじ伏せ、俺は肩からぶつかる勢いで踏み込んだ。
そして左フックを掻い潜ると同時、強引に相手の脇下へ右肩を捻じ込み左をみぞおち目掛け突き上げる。
高橋の表情は変わらず、ダメージは不明。
これはかつて備前選手にやられた事。
こうなれば上体が浮き上がり、自慢の強打も形無し。
だが高橋は先ほどの獰猛さはどこへやら、グイっと顔を前に突き出し首相撲の様な体勢を取ると、腕を俺の背中に回しクリンチをアピール。
レフェリーもそれを受け両者を引き離し、中間距離に戻されてしまった。
(…ああそうか…余力あって冷静な奴には効かないのか…これ…ははっ。)
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