第三十話 傷ついてなお
一ラウンドが長い、そう感じていた。
後どれくらいの時間が残されているのか、それすらも定かではない。
カンッカンッ!
忙しなくリングを動き回り、何とか漸くあと十秒を告げる拍子木の音を聞いた。
だが、絶対に気を抜いてはならない。
この男には残り時間など関係なく、一発貰ったら終わりという現実があるのだから。
「…はぁっ…はぁっ…シッシッ…シィ!」
通用しないと分かりつつも、左ボディストレートから入り上に返すと、続けざま右ストレート。
引き手に合わせて打ち込んでくるので、思いっきり後方に上体を逸らしながら斜め後方にステップ。
当然追撃を凌げる体勢にはないが、ラウンドが終わる時間を考慮しての攻防だ。
カァ~ンッ!!
そして長い長い第一ラウンドの終了を告げるゴングが鳴った。
たった三分間の攻防、向こうは涼やかな顔、こちらは既に肩で息をしている状態。
これだけを見ても、両者の性能差をありありと示している。
相打ちを絶対に許してはならないこちらと、相打ちでも当てたら勝てる向こう。
そしてパンチスピードも大差ないどころか、下手をすれば負けている可能性すらある。
決して大振りはせずコンパクトで力みも無く、コンビネーションもスムーズ且つ痛烈、引き手も早い為カウンターも取れない。
一度リズムを崩そうとクリンチに行った時分かった。
体幹も恐ろしく強い、電柱にしがみついているのかと錯覚したほどだ。
「…はぁっ…はぁっ…はっ…ふぅ~~っ。」
「深呼吸…ゆっくりね。」
会長の顔はいつもと変わらぬ穏やかなものだが、内心はどうだろうか。
俺がその立場だったら、正直タオルを投げたくなりそうだ。
「上手く立ち回ったね。被弾らしい被弾は無かったよ。ポイントは取ってる。」
「…ははっ…これなら例の条件呑んでおいても良かったですね。」
一ラウンド耐えたらとかいうあれだ。
こんな化け物を相手にするのだから、そのくらいのボーナスはあってしかるべきだろう。
「そうだね、ははっ。じゃあ、牛山さん辺りから特別ボーナス用意してもらおうか。」
「ははっ…お願いします。」
背中からも笑い声が聞こえた。
アドバイスらしいアドバイスは無い、何故なら付け入る隙が無いから。
セコンドアウトのブザーが鳴る。
正直もう向き合いたくないと、そんな事を思ってしまうが、俺は王者でここはリング、逃げ場などない。
会長と軽く拳を合わせ、大きく息を吐き歩を進める。
眼前には相も変わらず涼しげな顔で、散歩でもしそうな雰囲気を纏った高橋晴斗。
何故だろうか、その顔を見て少しだけイラついた。
「…シィッ!!シュッ!!」
短距離走の如く駆けていき思い切り右を叩きつけると、勢いそのままに左を返す。
どうせこのまま長引かせた所で、この強打をもらい沈むだけ。
ならば何とか隙を生み出し、そこを突いて行くしかない。
だがそんな甘い相手であるはずもなく、しっかりガードで受け止め微動だにしないまま反撃が飛んでくる。
「…っ!?……っ!!」
頭がぶつかりそうな距離、腕を畳んだ状態からトントンっと左右のアッパーを突き上げてきた。
今まではこういう場合、多少の被弾覚悟で返しを放ってきたが、こんなコンパクトな連撃でもしっかり力が乗っており上体が浮き上がる。
そして一瞬つま先立ちの様な体勢になった隙を見逃してはくれず、ショートストレートの連打。
「…っ!…チィッ!!…っぅ!?」
体勢を保つ暇さえ与えられず、後方へ吹き飛ばれてしまった。
相手の表情は一切変わっていない。
意地が先行しそうになるが、何とか理性で抑え込みなりふり構わず距離を取る。
無理矢理には追ってこないが、キュッキュッと乾いた音を響かせながら一定のリズムを刻み迫られる恐怖。
まるでホラー映画を彷彿とさせるものがあった。
(何なんだよこいつ…表情は変わんねえし…何やっても崩れねえし…くっそっどうすりゃ…。)
それでも己を奮い立たせ、ここまで自分を支えてくれた左を伸ばす。
「…シッシッシッシッシッ!!」
(覗き込んでやがる…何か狙ってるのか?)
こちらのジャブに対し、差し合いをするでもなく引き手に合わせ打つでもなく、しっかりガードを上げ覗き込んでくる。
それだけで汗が冷えていく気がした。
(リズムが変わった。ギアを上げるのか…。)
その場で淡々と刻んでいたステップに少しずつ左右への動きも混じり始め、リズムも早くなってきた。
戦力判断は終わった、といった所か。
こちらとしてはそんなもの全く分かっていないのだが。
高橋晴斗という選手は、データを集めようにも殆どが一ラウンド早々に終わっており、未知数の部分が多い。
なので流れによってはスタミナ切れを狙おうとも話し合っていた。
だが、こうやって向かい合ってみれば分かる。
そんな分かりやすい穴などこの選手にはない、という事が。
「…シッシィ!」
(…来るっ!!)
鋭い踏み込み、何とか止めようと力の籠ったワンツーを放つが、目の前から一瞬で消えたかと思う程の華麗なステップワーク。
気付けば、その体は俺の右側面にあった。
覚悟を決め、これから迫り来るであろう衝撃に備える。
「…っ…ぁ…かっ!?」
右の脇腹に痛烈な痛みが走り、苦痛に耐えようと歯を食い縛った瞬間、頭部が何か恐ろしい衝撃で弾かれ、背中全体を覆うひんやりとした感触。
俺はそれを、只々受け入れる事しかできなかった。
「…スリー…フォー……」
ダウンしているんだと気付き、上体を持ち上げる。
実力差など最初から分かっている試合、これでは終われない。
右脇腹にビキリと痛みが走るが、今はどうでもいい、立たなければ。
足にはまだ力が入る。
そして同時に、あの感覚がせり上がってくるのを感じていた。
(ああ…これ…知ってる。)
それは、前王者との試合で沸き上がった感覚と同じもの。
立ち上がり、カウントエイトで掴んでいたロープを離しレフェリーを見やる。
何かを言っているが取り敢えず頷き、試合再開を要求。
しかし何故かロープ際へ連れていかれ、リングドクターが何かを話しながら俺の顔を拭いている。
意識がふわふわとしていて、何しているのかよく分からない。
既に音は消え、じきに色も痛みも消えるだろう。
コーナーに悠然と佇んでいた高橋は、慌てる事も無くゆっくりと歩み寄る。
俺はガードを上げない。
この男を相手に、ガードは意味を為さないから。
取った構えはデトロイトスタイル、鼻先数ミリを見切り捉える為に視野を広げたのだ。
そして伸ばしてきた左を右で横から叩き軌道を変え、返す刀で左を伸ばす。
この試合初めてと言っていい、綺麗な一発が入った。
その瞬間、俺の気のせいかもしれないが、怪物は少しだけ微笑んだ気がした。
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