第二十九話 真の怪物
軽くミット打ちをこなし、セミファイナルも中盤から終盤へ差し掛かろうとしていた。
その時、控室の扉をノックする音。
誰かと思い見やれば、入ってきたのは叔父だった。
「おっす。思ったより重苦しい空気纏ってねえんだな。」
陣営と軽く挨拶を交わしながらやってきた叔父は、俺の調子を確かめる様に覗き込む。
「うん。事ここに至りて…ってやつだよ。相手が強い事は分かってるんだ。必要以上に緊張しても仕方ない。」
「まあな…うん、この階級での大仕上げだ。どんな結果になっても次に繋がる試合を…な。」
そう語った叔父は手の平を向けてきたので、挨拶代わりに左を一発。
「痛ってぇ~…ははっ、これなら期待できそうだな。頑張れ統一郎。」
そして視線で頷き合い、叔父は場を後にした。
モニターを見上げると、セミファイナルは既に最終ラウンドに入っている。
もうじたばたする様な時間帯でもないので、寝台に腰掛けガウンで頭をすっぽりと覆い、只々その時を待った。
因縁だの何だのと煽りのVTRが流れ終わる頃、廊下から足音が聞こえ、係員の呼びかけを待たずに立ち上がり陣営と視線を交わす。
ベルトを掲げるのは牛山さん、その後ろに会長と及川さんが続き、俺はその背に付いて歩く。
廊下にはいつも通り花道を作る後援会の人達に交じり、当然の如く佐藤さんと菊池君、叔父の姿もあった。
一様に表情は険しく、俺は少し微笑むと拳を当て合う。
入場テーマ飛翔に乗せ花道を通っていくと、会場から大歓声が巻き起こり、厳しい戦いに臨む勇気を与えてくれた。
松脂をリングシューズに染み込ませ、一度見上げてから駆け上がる。
ライトが眩しい。
赤コーナー側最前列に目を向けると、不安そうに胸の前で手を組む亜香里の姿。
因みに愛猫スイは、親猫がいるおばあさんの元に預けてきた様だ。
リングサイドには前回よりもカメラを構える人たちの数も多く見え、注目度の高さを否応なく教えてくれる。
そして歓声が響く中、続いてコールされたのは挑戦者の名前。
入場テーマは、意外にも穏やかなクラシック音楽。
纏うのは白を基調としたガウン、背にジム名が刺繍してあるだけで一見すると地味。
花道を歩む姿は堂々としており、顔には一切の気負いが見られず淡々としている。
一挙手一投足に淀みがなく、ロープを潜ると一度こちらに視線を向けてきた。
決して無表情では無いが、燃え上がる闘志を感じる事も無い不思議な空気を纏っている。
観客の歓声が止むと、リングアナがマイク片手に語り始める。
「……赤コーナー…十四戦十四勝無敗八KО…今宵三度目の防衛戦を迎える地方の星…公式計量は百三十パウンドぉ~森平ボクシングジム所属…日本スーパーフェザー級チャンピオン~とおみやぁ~とぉ~いちろぉ~!」
歓声が響く泉岡アリーナ。
本当は誰もが分かっているだろう、この試合の図式を。
高橋晴斗は天才だ。
天才という言葉は失礼だという者もいるが、現実には確かに存在する。
努力では決して越えられない力を持って生まれた者。
そう、この試合の図式は、天才に凡百がどう抗うかという話。
「……青コーナー…十六戦十五勝一敗勝ち星は全てナックアウトぉ…怪物と呼ばれし稀代のKОパンチャー、唯一の敗北は現王者遠宮統一郎によってつけられたもの、今宵因縁の戦いの幕が開く………日本スーパーフェザー級一位ぃ~たかはしぃ~はぁ~るとぉ~!」
俺と同程度の歓声が上がる。
そしてリング中央で向き合った。
身長は俺より少し低く、威圧感は感じない。
体を忙しなく動かす俺と対比する様に、高橋選手はまるで動かず只レフェリーの声に耳を傾けている。
両者が分かたれコーナーに戻ると、取り敢えず一息つき会長の指示を聞いた。
「距離、距離だよ統一郎君。向こうは久しぶりの試合、リーチはこちらが上。打ち合うのは絶対駄目。後はコーナーを背負わない事と、ガード柔らかく…OK?」
「はい。受け止めるんじゃなく流すガード…ですよね?」
マウスピースを銜えながら、牛山さんと及川さんとも視線で言葉を交わす。
二人供が力強く頷いた直後、第一ラウンドの始まりを告げるゴングが鳴った。
向き合い中央へ歩んでいく時にも高橋選手と視線が合ったが、やはり感情の動きを感じない。
どう例えればいいのだろうか、まるでモニター越しの見る氷の様。
「…お願いシャス。」
バシンッと乾いた音が響き、いきなり打って出てくる事も予想されたが、相手は静かにその場でリズムを刻み始める。
「…シッシッシッシッシッ!!」
(…乗らせるかよっ!!)
リズムに乗らせてしまえばもう止めること能わずと、多少強引でも乱す事を目的とした左の連打。
しかし相手には何の動揺も見られず、しっかりガードを高く上げたまま距離を取りそのままトントンと軽くステップを踏む。
「…シッシッシィ!」
絶対にリズムには乗らせまいと踏み込んで、ジャブ二発から右ストレートを伸ばす。
すると相手は、小さく素早くサイドステップ、そしてワンツー。
「……っ!!?」
それはあまりに鋭く、力を流す動作が間に合わずそのまま受け止める形になってしまった。
いや、正確に言えば受け止めることも出来ず、上体ごと後方へ弾かれたのだ。
しかもコンビネーションの間には、相対している者にしか分からない細かで嫌らしいフェイントを混ぜてくる。
腕がびりびりと痺れる様に痙攣し、余りの力の差に思わず毒づきたくなるのは許されるだろうか。
(何だよこれっ…パンチが強いとかそんなレベルじゃねえだろっ。まともに受け止めたら…折れる…。)
間違いなく気後れしてしまった。
視線を向けると、一切表情を変える事も無く淡々とリズムを刻み左を伸ばしてくる相手の姿。
加え先ほど同様、一々細かで嫌らしいフェイントを混ぜてくるおまけ付き。
「…チィッ!」
とにかく距離を取らなくては勝負にもならないと、下がりながら捌き、リングを大きく回り様子を見る。
そんな俺を、高橋晴斗はまるで機械の様な正確さで左を突き追い立ててきた。
大振りならば、怖いがカウンターチャンスも生まれる。
だが恐ろしい強打を武器に、これ以上ないほどの堅実な戦い方をされては打つ手がない。
「…っ…くぅっ!!」
(これでリードブローとか、反則にもほどがあるだろっ!!)
弾こうと拳を合わせる度に、痺れるような衝撃が襲う。
まともにもらえば、間違いなくこの左だけで倒されてしまうだろう。
だが左は俺の代名詞でもあり、これで後れを取ったらもう負けを認めたも同然だ。
(リーチは俺が上、見極めろ。俺だけが届く距離を…一瞬をっ!)
そしてロープを背負わない様気を付けながら立ち回り、左の距離、タイミングを計る。
「…シィッ!!」
数度のフェイントのち左を伸ばしてきた瞬間、数ミリを見極め同時に左を伸ばす。
俺だけが届く距離、確実に当たる…筈だった。
「…っ!?」
だがその瞬間、相手の左は先ほどまでよりも更に伸びてきた。
その違いが何であるかはすぐにわかった、腕だけで打っていた先ほどとは違い、肩をグイっと内側へ入れ射程距離を伸ばしてきたのだ。
結果は当然相打ちとなり、固い棒で突かれたような衝撃が顔面を襲った。
だがまだだ、次が来る。
「…ヂィッ!!」
迫る右ストレートに、カウンターを取ろうなどと言う考えは浮かばなかった。
なりふり構わず足を使い距離を取り、一切表情を変えない相手を眺める事しかできない。
(…全く…カッコ悪いな…でも、勝負は捨てない…。)
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