第二十八話 見ててほしいから
二月十二日、日本スーパーフェザー級タイトルマッチ前日計量。
当然の如くさらりと終わらせた佐藤さんの後に続くのは俺。
「……五十八,………九㎏。遠宮選手スーパーフェザー級リミットですっ。」
詰めかけた報道陣から溜息にも似た声が上がり、陣営からは喜びの声が上がった。
ふらつく俺を及川さんが支え台から降ろすと、補水液を口に運んでくれる。
零さない様にしっかりと口の周りにはハンカチも当てられ、こくりこくりとゆっくり飲み干していった。
こういう時、身を任せるのは何故か及川さんが一番信頼できる。
そして取り敢えず生きる為の成分を体に染み渡らせると、台に向かう男を見やった。
活きの良さそうな金髪……ではなく、眉までかからない程度に伸ばした黒髪の男。
以前のこだわりは捨てたのか、纏う空気もとげとげしさが無い。
「……五十八,七㎏……」
そして幾分か余裕のありそうな表情で計量を終える。
台を降りた彼は一瞬こちらに視線を向けると、首だけで軽く会釈をし俺もそれに応えた。
「両選手、一枚お願いします!」
記者の一人がそう告げると、便乗する様にカメラを構えた人達に囲まれてしまう。
「握手した体勢で、目線こっちにもらえますか?」
言われた通りに手を握り合うと、カメラの方へ視線を向ける。
カシャカシャと夥しいフラッシュがたかれ俺は目を細めるが、対する高橋選手は全く動じていない。
そして互いが再び視線で挨拶を交わすと、何も語り合う事無く背を向け合った。
「坊主、飯は妹ちゃんとか?」
「出来れば、そうですね。交えて皆でっていうのが一番ですけど……」
「いいって。大事にしてやんな。」
そうして家の近くまで送ってもらうと、取り敢えず陣営とは一旦お別れ。
何となくだが牛山さんは、俺がどれだけ彼女に救われているか分かっているのかもしれない。
相変わらず、顔に似合わず気遣いの出来る良い人だ。
「……亜香里ぃ~、ご飯行こっか。」
パタパタと愛猫を抱いて駆けてくる妹は、元気の出た俺を見ると少し微笑んだ。
そして車に乗り込みいざ出発。
「俺は肉だな。肉がいい…肉…肉だ…肉が食いたい。」
水分が補給出来た途端これだから困る。
一つが満たされれば次が顔を出すのだ、人間とは何と欲深いものか。
「調べたら、お肉は消化に悪いからダメって書いてあったよ?」
「いいのいいの。俺は鉄の胃を持つ男だから、そこらの凡人の胃袋とは違うよ。」
これだけはデビュー当時からずっと褒められ続け、一番自信のある点だ。
出来ればボクシングの事で自信を持ちたい所だが、まあいいだろう。
不安気な瞳を向けて来る妹を尻目に、俺が選択したのはとんかつ屋。
減量明けにトンカツを食う奴っているだろうか、あんまり聞かないが食いたいのだから仕方ない。
駐車場に車を停めると、亜香里の背を押し急いで店内へ。
「えっと…特選ヒレ定食とロースカツは単品で、後はきつねうどんとミックスフライも下さい。」
俺がそう告げると、それが二人分の注文だと思ったらしい店員は下がろうとするが、それを制し、
「亜香里はどうする?さっぱりとんかつ定食とかどう?女性に人気って書いてるし。」
「え?…そう…だね。それにする…。」
少し急かしてしまっただろうか、だがこういうのは勢いが肝心だ。
そして早く来ないかなとそわそわしていると、亜香里がセルフらしき水を汲んで持って来てくれた。
「ちょっと恥ずかしいから落ち着こうよ…。気持ちは分かるけどさ…。」
どうやら兄としてあるまじき姿を晒してしまっていたらしい。
家に帰り着くと居間で卓を挟み向かい合い、俺は一つ告げる。
「…亜香里、明日の試合は…負けるかもしれない。」
心の準備は必要だ、俺にも、彼女にも。
「………うん。」
「精一杯やるけど、それでも厳しい相手だ。」
「………知ってる。テレビも皆そんな感じ…。」
「はははっ、まあ御子柴選手の時もそうだったけど、今回はその内情が違う。本当に…付け入る隙が無いんだ。」
「…………うん。」
「それでも、亜香里には見に来てほしい。どんな結果になっても最後まで見届けてほしい。」
辛い現実がある。
それは誰にも降りかかり、避けようもなく、その上逃げられない事もある。
だからこそ、見ていてほしい。
そして願わくば、彼女の中で何かが変わる切っ掛けになってほしいと、そう切に願う。
「だから今回渡すのは、最前列のチケットだ。嫌かもしれないけど、目を逸らさず最後まで見ててくれ。」
彼女は頷くと、渡されたチケットを静かにしまい込んだ。
二月十三日土曜日、当日計量リングチェックなどを終え、うろうろせず控室でじっと待ち時刻はもうすぐ十六時。
既に試合は始まっており、目の前では目前に控えたその時に備え、佐藤さんがシャドーをこなしている。
対して俺はただじっと寝台に座り、神経を研ぎ澄ませていた。
今回ばかりは他にかまけている余裕はない。
それに佐藤さんなら、俺が心配などせずとも勝つだろう。
彼はそれほどの実力者だ。
今回の一戦に向け会長と練習してきたのは、柔らかく受け流すガード。
彼のパンチは受け止めてしまえばそのまま倒されてしまう。
正直、その時点で全てを諦めてしまいたくなるほどだが、そうもいかない。
そして幸いと言ってはなんだが、高橋選手は教科書通りの綺麗なボクシングを展開してくる。
その為、動き的には比較的読みやすいと言えるだろう。
だが、一回受け損なえば終わりというプレッシャーの中、十ラウンド凌げるかと問われれば否だ。
しかもパンチは早く、重さは勿論だが切れもあるだろう。
リングで向かい合うまでに、以前相対したイメージは全て消しておかなくてはならない。
少しでも残っていれば、それが隙となり、試合を終わらせる切っ掛けとなってしまうから。
イメージする。
細かく刻むステップワークから伸ばしてくる左は距離を取って躱す。
強烈な右、これは体全体を使って受け流す。
攻撃は最大の防御、隙あらば自慢の左で眼前を覆い突き放す。
バンテージチェックも終わり、再度腰掛けイメージの中に没入。
そうしてブツブツ呟きながら過ごしふと顔を見上げると、いつの間にか顔に少し痣が出来ている佐藤さんがいた。
「…あれ?もしかして…そんなに時間経ちました?」
「はい…。もうすぐセミファイナルが始まりますね。」
セコンド三人の表情を覗く限りどうやら勝利した様だ。
情けない。
気を使って誰も声を掛けられないほど、余裕をなくしてしまっていたらしい。
俺がモニターを見上げると、選手入場の真っ最中。
一息ついてから、グローブを付けてもらえないかと促す。
そして立ち上がり、
「よっしゃっ!では会長、ミット打ちやりましょっか。」
重苦しい空気を払拭するべく、極めて明るい声で告げた。
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