第二十七話 大丈夫

一月も中旬に差し掛かり、減量の初期段階。


ジムにはもうお馴染みとなったボクシング雑誌の記者、松本さんの姿があった。


「…そうですか。これを最後に転級するんですね。あ、これ、うちだけのネタっすね。書いても?」


転級する事実はまだ公にはしておらず、よく目を掛けてくれているこの人だけ特別扱いだ。


「…でさ、他のメディアだと『因縁の』ってよく見るけど、遠宮君的にはどうなの?」


そう、メディア関係の取り上げ方は以前の新人王戦からの因縁ある両者という形。


盛り上がりを考えての事だろうが、少なくとも俺は思った事も無い。


「俺としてはどっちでもないですけど、それで盛り上がるならそう演じましょうか?」


試合を盛り上げるためのこういう手法は欧米では一般的だ。


それを真似るという訳では無いが、見ている側が引き付けられる材料を作る事もまた、選手側の仕事なのかもしれない。


「はははっ、いやいや、好青年のままでいてくれよ。等身大なのが遠宮君の魅力だ。」


口にはしないが、ボクシングに携わる者なら恐らく皆分かっている。


この試合は一方的なものになるだろうと。


それだけ両者の力に差があり過ぎるのだ。


そして俺から一通りの事を聞き終えると、次は佐藤さんに話を聞いている様だ。


「このまま連勝街道を突き進んでいくと、そろそろ見えるんじゃない?ランキング。」


聞き耳を立てて思うが、佐藤さんがランキングに入る条件とは何だろう。


勿論既にランキングを持っている選手を倒すというのが第一だが、そう簡単に試合が決まるとも思えない。


そう考えると、やはり地道に結果を積み重ねる事しかないのだろう。


あれだけの実力者、無理を推してでもやはり新人王戦に出すべきだったのでは、そんな事を思った。










一月も下旬に差し掛かる頃、いつも通りの食卓で一つの提案をした。


「亜香里、この試合が終わったら、一度しっかり今後の事について話あおう。」


最近はスイという愛猫のお陰もあってか、段々と前向きになりつつある。


そして同時に今のままでは駄目だという自覚も芽生えたらしく、考え込む事も多くなった。


「…うん、分かってる。試合…頑張って。」


彼女にとっての精一杯の激励。


声は弱々しいが、その瞳はしっかりと俺を見据えていた。








試合まで一週間を切ると、やはりこの階級でやるのは限界なのだと嫌が応にも理解してしまう。


冬の寒い時期という事も関係しているのだろうが、計画からはかなりずれ込んでいる。


まあ実の所これにはもう一つ理由があり、少し減量のやり方を変えてみようと調べ、食べて落とす方法というのを試したのだ。


だが、気付けば全然間に合っていないという間抜けさ。


そして数日前から慌てて食事量を一気に減らし今に至る。


よく考えれば、あれは無理のない階級でやっているから出来る話な訳で、少なくとも今の俺には合わなかったらしい。


そんな間抜けもあり、亜香里にも迷惑をかけてしまっている。


ロードワーク後、疲れ切った体を横たえていると、俺の体を濡れたタオルで拭いてくれるのだ。


「…悪いな。」


「同じ一言なら…感謝がいい。」


「はは…確かにそうだ…ありがとな。」


手つきはもう慣れたもので、制する事無く任せていると、局部まで拭いてくれるのだからもう頭が上がらない。


毎度減量時に自覚する事がもう一つあり、性欲というものの優先順位だ。


これは同じ状況に身を置いた事がある者なら分かるだろうが、体が渇き食欲や睡眠欲が著しく満たされない環境だとそれは顔を出さない。


女として全く意識していないかと問われれば、否と答えざるを得ない妹に局部を見られても、恥ずかしいという思いさえ抱かないのはそのせいだろう。


そうである筈だ。


亜香里は俺に気を使ってか、無表情のまま淡々と全てをこなすが、付き合いの短い兄の局部をまさぐる自分を、内心ではどう思っているのだろうか。


聞いてみたいが聞きたくない、不思議な感情だ。


そして当然こんな状態で職場に出るのは不可能である為、試合まで休みを頂いている。


店長には、妹の事についても色々相談に乗ってもらっているので、本当に申し訳なく思う。


そういえば、チケットの手売りやポスター張りを自身でやらなくなったのはいつからだっただろうか。


「…終わったよ。布団敷いたから、もう休んで。」


バケツを持ち立ち上がる亜香里に一言礼を告げ、俺は取り敢えず目を瞑った。


当然、眠る事は出来ないが。


これ以外にも亜香里は、バンテージ等の面倒臭い洗濯物もこなしてくれている。


本当にありがたい事だ。












前日計量まで後二日となり、もう毎度の事となった世話を彼女にさせてしまっていた。


「…亜香里…いてくれて…有り難う。」


心からの感謝。


弱った心は人のぬくもりを求めてしまう。


鼻をすする音が聞こえ視線を向けると、ポロポロと涙を流す妹の姿。


「…私は…何にもできない…役立たずだから…。」


手を伸ばし、ただ頭を撫でる。


そんな事はない、今俺を支えてくれているのは間違いなくお前だと。


「…学校に行くと…気分が悪くなってきて……吐きそうになるの…。」


妹はハッとした表情を浮かべ、こんな状況で何を言っているのかと、詫びの言葉を告げる。


だが俺は、続けてくれと視線で促し、ただその言葉に耳を傾けた。


「自分でも…どうしてこうなるのか…分かんなくてっ……どうしようもなくてっ…。」


自分でも分からない事を、誰かに説明するのは難しい。


母さんはどうだったのだろうか、しっかり話を聞いてあげたのだろうか。


もしかしたら、俺よりもずっと彼女を知っているからこそ、その話を真剣に捉える事が出来なかったのではないか。


以前少しだけ母さんと話した時に、中学までは勉強もスポーツも出来る優等生であったと言っていた。


そんな子が、突然学校に行きたくないと言ったら当然苛めを心配する。


そしてそれも無いと分かれば、やはり仮病やただの我が儘を疑うのではないか。


店長に相談した時、恐らく対人恐怖症の一種だと言っていたが、本当にそうなのかもしれない。


それはもっと深刻な症状である筈だと俺が勝手に連想していただけで、何事にも段階があるのだろう。


「……大丈夫…。」


乾いた口を動かし、ただ一言告げた。


伝わってくれただろうか。


何とかなる、という意味ではなく、俺が何とかするという意味だと。


亜香里は静かに頷くと、愛おし気に俺の体を優しく拭いてくれた。

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