第二十六話 リラックスも大事
「何だか不思議な気分。隣で遠宮君が寝てるなんて。」
その夜、彼女は家に連絡した後、うちに泊まっていく事になった。
余分な布団は無い為、俺と共有し隣り合わせで寝るのだが、意外にそこまで緊張はしていない。
寧ろこの感覚は安らぎに近いものさえあった。
「そうだね。でも襲ったりしないから大丈夫だよ。」
「う~ん、私としては別に……ね?」
それから不思議と男女の空気にはならず、けれども互いの事を語り合う穏やかな時を過ごした。
豆電球だけが照らす室内、息遣いさえ聞こえる。
そして互いの夢の話になり、
「私さ…ピアニストにはなれないかもしれない…。」
語る彼女の顔からは、そこまで深刻な感情は読み取れない。
「わき目も振らず頑張ったつもりだけど、ちょっと…届きそうもないかな…。」
なんと言葉を掛ければいいのだろう、いや、掛けてほしいのだろう。
「遠宮君はさ、いつからボクシング始めたの?」
聞かれ思い出す、幼少の自分、友達も無く帰っては鏡に向かって拳を繰り出す毎日を。
「ジムに通い出したのは小三か小四くらいだけど、物心ついた時には偶に父さんに教えてもらってたかな?」
人から見れば寂しい生活かもしれないが、自身にとってはそれほど悪い生活では無かった。
「そっか、やっぱりそうだよね。本気の人達は迷っても歩みを止めないよね。私は止めちゃったからなぁ…。」
知らず知らず、布団の中では手を握り合っていた。
「でも俺は凡人の域を出ないよ。」
「え?…そんな事無い。チャンピオンって誰でもなれる訳じゃ無いでしょ?私これでもさ、今はちょっとボクシング通なんだよ?」
証拠だと言わんばかりに、俺の現在持っているランキングをつらつら述べていく。
「世界ランキングにも名を連ねているそんな人が、自分を凡人なんて言ったら駄目だよ…。」
分かっている。
上手く行きすぎと言ってもいいほどの成果を出せている事は。
それでも、いや、だからこそどうしようもなく差を感じる瞬間があるのだ。
まあ、そんな言い訳をしている暇があるなら走れという所だが。
「そうだね。どんなに勝ち目が薄くても、やるだけの事はやらないと…ね。」
「うん。私も、やるだけの事はやってから諦めようと思う。その後は……」
『帰ってきてほしい』そう伝えたかったが、今はまだそれを言うべき時ではないだろう。
俺も彼女も、まだ戦うべき時を生きているのだから。
翌朝、三人で朝食を囲む。
準備をしたのは明日未さんで、俺がロードワークに行っている間に済ませてくれた。
冷蔵庫にあったもので適当にとは言っていたが、並ぶメニューは正に日本の朝食といったラインナップ。
卓に着いた亜香里は俺たち二人にチラチラと視線を向けているが、何を考えているのかは何となく察しがつく。
男女の営みはしたのか、という事が気になっているのだろう。
「何かこうやって並んでると、明日未さんと亜香里って姉妹に見えなくもないね。」
顔立ちは違うが二人とも美人であり、同じように綺麗な黒髪が肩に掛かり体型もすらっとしている。
「そう?ふふっ、だってさ亜香里ちゃん。私の妹になろっか?」
「…え?……そう…ですね。」
「ありゃりゃ、振られちゃった。遠宮君の妹でいたいって。愛されてて良かったね。」
「あ、愛……べ、別にそう言うんじゃ……」
明日未さんの纏う空気は柔らかく、妹とも相性が良さそうだ。
亜香里が俺以外と話す機会は殆ど無い為、こういうのを見ると本当にホッとする。
「明日未さんは三が日はいるんだっけ?」
「うん。今日と明日、手伝ってから帰る予定。」
「そっか。…亜香里、初詣してないだろ?帰り道、俺たちも一緒に行って済ませよう。」
「うん…わ、分かった。」
渋るかと思われた妹も意外にすんなり了承し、朝食を終えた後は愛猫の様子を見に部屋へと戻った。
そんな折ふと気付く。
そう言えば、次の試合を一時忘れる事が出来ている事実に。
緩んでいると言われればそれまでだが、今までが張りつめ過ぎていたきらいもある。
今日の俺ならば、ジムの空気をそこまで悪くせずに済むかもしれない。
三時過ぎジムへ赴くと、三が日という事もあり、先に来ていたのは佐藤さんだけ。
「「明けましておめでとう御座います。」」
互いに決まり文句を告げると、暖房をつけたばかりの一室でバンテージを巻き始める。
「お~っす、明けまして……」
そして牛山さんがやってきて、
「ああ、いたいた。寒い中ご苦労様。明けまして……」
及川さんがやってきて、
「あれ、皆早いね。今年もよろしくね。」
続き会長がやってきて、取り敢えず今日の面子であろう人達が揃った。
試合を控えた俺達以外は三が日くらい休むようお達しを受けているのだ。
まあ、明君とかはその分ロードワークの距離増やしていそうだが。
そしてセコンド三人組が話を咲かせ、俺達がシャドーを開始した頃、
「ちゃっす~。一応顔出しに来たっす!」
新年早々、清水トレーナーも元気な声で挨拶をしながらやってきた。
去年の暮、彼が見ている選手が二人プロライセンスを取得したようだが、まだ試合はやらせられないとの事。
なので、今回の興行に出る陣営は相変わらず俺と佐藤さんだけだ。
「いや~、見ました?スポーツ番組の特集…。」
清水さんの問い掛けに、少し眉をひそめて答えるのは及川さん。
「うん見たよ、高橋君を特集したあれね。本当失礼しちゃうわ…。何ラウンドで倒すか、そこしか注目してないんだもん。」
俺は意識的にそういう番組を見ない様にしている。
今は少し余裕が出てきたが、ナーバスになっていた時にそれを見ていたら心がやられてしまったかもしれない。
「全くだぜ。坊主は今までだって厳しい相手倒してきてんだよ。今回だって同じだ。また引っ繰り返してやるってんだ。」
牛山さんは何気にいつも俺を信頼してくれている。
「そうですね。彼は確かに規格外の選手ですけど、それでも同じ階級のボクサーだ。絶対なんてありません。」
部屋の隅で暖房にあたり交わされる会話に耳を澄ましていると、やはり心強さを感じる。
「…で、会長的には何か策はあるんすか?」
清水さんが問いに対する返答は、何となくわかってしまった。
「彼は…教科書通りのボクシングをしているだけで、癖も見当たらない。どこかに穴があるかと言われても、新人王戦以降全部一ラウンドしかやってないからね…。」
「そうなんだよね~。そこが一番ネックじゃない?全部試合開始早々に終わってるから研究しようも無いっていう……」
及川さんの言う通り、彼の試合は一分かからずに終わる事が殆ど。
当然、得られる情報は少ない。
「それでも…俺は坊主ならやれるって信じてる。これがスーパーフェザー最後の試合だしな。」
サンドバックを叩きながら聞こえた言葉に、思わず目頭が熱くなる。
そして牛山さんはさらに続けた。
「そう言えばよ、あれは今回の契約に入ってんのか?一ラウンド持ったら…判定まで行ったら…ってやつ。」
「ああ~そういやそんな話あったっすね。どうなんすか会長?」
会長は問われ、苦笑気味に答える。
「断ったよ…。チャンピオンとしてそれは…プライドに関わるからね。」
会長はそう語るが、現状を鑑みてもらえるものはもらっておいても良かったなと、俺は思った。
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