第二十四話 アニマルセラピー

十二月最初の週末、俺は自宅から数件離れた場所にある民家へとお邪魔していた。


この家は老人夫婦の二人暮らしで、最近飼い猫が子供を産んだらしい。


それを聞きつけ、うち一匹をもらい受けようというのだ。


「まだ生まれだばっかりだがらね~、歯も生えでねんだぁ~。」


おばあちゃんが抱えてきたのはミャアミャアと鳴く、真っ白い小さな猫。


何とも愛らしい。


そして色々と話を聞くと、始めてで子猫を飼うのは中々にハードルが高い気がしてきた。


多少の不安が沸き上がったがお礼を告げ、段ボールを抱えて帰路に着く。


家までは精々が二、三百メートル、子猫はその間ずっとミャアミャアと鳴き続けていた。


一体この可愛い生き物はなんなのだろうか。


無条件で守りたくなってしまう。






「亜香里ぃ~~、ちょっとおいでぇ~。」


「…な、何?…ぁ……猫。」


そう、アニマルセラピーという言葉があるくらいだ。


きっと一緒に生活すれば、どんどん活発になるに違いない。


それに俺も最近は色々と考えすぎていたので、何か心境の変化をもたらす切っ掛けが欲しかった。


「………可愛い…。」


やはり子猫の効果はてきめんらしく、亜香里が緩んだ表情で歩み寄ってきたので預けると、この日に備えて買い揃えた道具を車へ取りに向かう。


(あれ、よく考えるとこれって、無理矢理母親から引き剥がしたって事にならないか?それに亜香里がいなくなったらどうすんだろ俺…というか、亜香里になんの確認も取ってないぞ…。)


だが、俺はこの時になって初めて生き物を飼うという重大さに気付き始めた。


まあ、それでも連れてきてしまったものは仕方が無いと、せめて万全の環境を整えるべく、居間で教本に目を走らせながら奮闘する。


「あの…さ、亜香里。何の確認もせず連れてきちゃったけど、面倒見れそう…?」


これで嫌だと言われたらどうしようか、まあ、あの老夫婦の元に帰すしかないのだろうが…。


「うん…。大丈夫。面倒見れる。」


返答を聞き、ほっと一息。


「そ、そっか。良かったぁ~。」


取り敢えず出戻りさせずに済み胸をなでおろす俺の横で、亜香里はスヤスヤと寝息を立てる子猫を眺め、柔らかな笑みを浮かべていた。








数日後、会長から正式な試合の日取りを告げられる。


「二月十三日に決まったよ。相手は…言うまでも無いけど、高橋晴斗君だ。」


この日取りは縁起を担いでいるのだろうか、世間からは絶対無理と言われたタイトルマッチに勝利したのと同じ日付。


だが、迎え撃つのは現状考えうる最悪の相手だ。


会長にしても、この相手とやるくらいなら前王者と再試合する方がましと思っているだろう。


だが、一つだけこちらに優位に働く材料もある。


それは試合間隔だ。


彼は挑戦者決定戦を経ず、直接タイトルマッチ本番に臨む。


間に一戦挟むかと思われたが、その相手すらも決まらなかったらしい。


半年のブランク、これは思いのほか大きい。


彼の精神の成熟度合いにもよるが、人によってはかなりのモチベーション低下を招く筈だ。


場合によっては注意散漫、あの恐ろしい戦力を発揮させずに勝つ事も出来るかもしれない。


そんな淡い期待を胸に、俺は日々の練習に打ち込んだ。






十二月も中旬を過ぎ雪が積もり始めた頃、我がジムから新たに数名のプロ選手が誕生した様だ。


まるで自分に関係ないように語るのは、単純に人の心配をしている余裕が無いからだ。


今の森平ジムは二つのチームに分かれて練習している。


主に会長が見る俺達古参の三人と、新しい施設で清水さんが見る選手たちだ。


基本練習メニューも別々であり、顔を合わせるのは偶のスパーリングくらい。


最近のジムの空気は少し重い。


原因は何かと言えば、間違いなく俺だ。


本当に情けないが、今の所相手の出来が不十分でない限り勝算は全くない。


そして恐らく、陣営全員がそれを理解している。


そうやってみんなに気を使わせているのは分かっていても、どうにもならずピリピリしてしまうんだ。


勿論怒鳴ったり口調が荒くなったりしている訳では無いが、これだけ共に過ごせば空気で分かるのだろう。







「………ただいま。」


帰ると、珍しく亜香里がスイを抱えて迎えてくれた。


スイとは猫の名だ。


「…お帰りなさい。」


こうして飼ってみて初めて分かったのだが、子猫というのは本当によく眠る。


なので家にいる時間の少ない俺は接する機会が殆ど無く、恐らく家族として認識されていない。


起きている姿が珍しいので、撫でようと手を伸ばしたら威嚇されてしまった。


飼い始めてから触れた記憶が殆ど無い。


悲しい…。


意外と言っては失礼だが、亜香里は言葉通り、いやそれ以上にしっかりと面倒を見てくれている。


既にトイレの場所もしっかり記憶しているようで、家のあちらこちらに糞尿がばらまかれるといった事も無い。


最初は自分の部屋の中だけで飼っていて、こうして部屋の外に連れ歩くようになったのは最近の事だ。


偶には外に出してやればと俺が言ったら、小さいうちは駄目と答える。


元が生真面目なのだろう、教本を隅々までしっかり読み込んで教育ママをしているようだ。


「ねえ、スイちゃん。統一郎は家族だよ。ナデナデさせてあげな、駄目?」


スイはまるで言葉を理解しているかの様な仕草で、亜香里の胸に顔をうずめてしまう。


その反応にガックリ項垂れつつも、俺は夕食の支度に掛かった。







十二月二十四日、世はクリスマスで浮かれているが、俺はそんな気分にはなれない。


一応亜香里には強引にお小遣いを渡しているが、流石に自分で好きなものを買えというのは兄として如何なものか。


という訳で、俺は一人デパートへ足を運んだ。


テナントが多数並ぶ中にはペットショップもあり、何かないかと流し見ると良いものを見つけた。


早速購入すると、足早に帰宅。


「これ…安物だけど、クリスマスプレゼント。」


俺が買ってきたのは、猫とお揃いの静電気対策ブレスレットという商品。


よくは分からないが、人気と書いてあったので買ってきた。


「あ…ありがと。」


亜香里は控えめな礼を告げると、さっそく愛猫と共に身に付ける。


すると、白い花柄のを買ってきてしまった為、スイの白い毛に埋もれ良く見えなくなってしまった。


「あ、ごめん。色間違えたな。」


「ううん、いいよ。嬉しい、ありがと…統一郎。」


翌日、亜香里は以前のリベンジとばかりに、今度は穴の開いてない手編みの手袋を手渡してくれた。







年の暮れ、忘年会も兼ねた激励会が開かれ、集まった面々に感謝と意気込みを語った。


本心では勝てるなど思ってもいないくせにと、内心呆れ交じりで。


そんな俺の感情とは裏腹に、スポンサーに就いてくれる地元企業が更に三社増え、複雑な思いが内心を満たしていった。

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