第十七話 苦痛を越えて
「ご飯とか…自分で作るから…。後…掃除とかも…」
十月も十日を過ぎた頃、亜香里が弱った俺を気遣ってか申し訳なさそうに語る。
「そっか…。じゃあ、試合が終わるまでは自分の食事だけお願い出来る?」
一万円札を数枚渡し、こんなに要らないと突っ返されるも無理矢理握らせた。
時々、何か相談したい雰囲気があると察してはいるのだが、情けない事に今の俺にはそんな余裕すらない。
だがせめてこのくらいはと、そっと頭を撫でた。
プイっとそっぽを向かれたが、顔は少し嬉しそう。
「ああそうだ。良かったらこれ。」
興味があるかは分からないが、試合のチケットを用意しておいた。
最前列は少し刺激が強いかと思ったので、二階席だ。
「…うん…行ってみる。」
その後、会場の場所が分かるかと何度も聞いてしまい、子供扱いするなと怒られてしまった。
十月十七日、計量まであと二日。
練習後秤に乗ると、五十九,七㎏。
あと八百gがきつい。
食事はもう取っておらず、水分も殆ど断っている状態。
松本さんが取材にやってきたが、俺の様子を眺め会長などに話を聞いただけで帰って行った。
色々な人に気を使わせてしまっている現状を情けなく思う。
仕事も少し前から休みをもらっており、車の運転も危険が付きまとう為、ロードワークを兼ね走ってジムまでやってきた。
鏡を見れば、ウサギの様に充血した目でこちらを見る俺が映る。
相手陣営はこちらが取った宿泊施設にもう入っているらしい。
フラフラになりながら家に帰り着くと、心配そうな顔をした亜香里が迎えてくれる。
「…お、おかえり…なさい。」
声は出さず、軽い笑みを浮かべ応えた。
「わ、私…部屋にいるから…。」
気を使わせてしまっている。
分かってはいてもどうしようもない。
恐らく彼女にしても、ここまで俺が弱るとは思っていなかったのだろう。
俺を見る目は、少し恐れが混じっている気がした。
そしてそのまま部屋で倒れる様に横になると、何とか眠ろうとするのだが、体が渇いて、苦しくて、眠れない。
眠ってしまえば楽になるし、ある程度減量の手助けにもなる。
だが眠れない。
(風呂入ってないし…臭いだろうな。)
そんな事を考える余裕はあるのかと思い自嘲すると、扉を叩く音。
「あ、あの…これ…」
亜香里が恐る恐るといった感じに何かを差し出す。
それはどうやらタオルであるらしいが、手に取る気力も湧かずただ首を横に振った。
「わ、私…ふ、拭こうか?」
手が震えているのが分かる。
無理するなと言いたい所だが、臭いのは嫌だ。
こくりと頷き意志を示すと、慣れない手つきでサウナスーツを脱がせてくれる。
そして横になったままの俺をごしごし頑張って拭いてくれた。
目は困った様に俺の下半身に注がれているが、流石にそこまでさせる訳にはいかない。
「…ぁりがと…。」
感謝を伝えると、俺に毛布を被せ自室へ戻っていった。
十月十九日月曜日、計量日当日。
「忘れ物ない?清水君は残るんだっけ?」
「あ、はい。こいつらの練習見なきゃなんで。」
今回は及川さんも同行し、いつものメンバーで出発。
ミニバンに乗り込むと、後部座席二列を俺と佐藤さんで占拠する。
気のせいか、佐藤さんも今までよりは多少苦しそうな顔をしていた。
だが、それは必然ともいえるだろう。
日々の練習に打ち込めば打ち込むほど体は出来上がっていく。
自然体重は増え、減量は苦しくなる。
飄々としている佐藤さんでもそれは変わらないのだと思うと、何故か少し安心した。
泉岡アリーナ第一会議室、時刻は昼少し過ぎた辺り。
会場に入ると、松本さん含め多くの報道陣が揃っていた。
視線を向けた先には、浅黒く日焼けした男の姿。
こけた頬が、向こうも減量に苦しんだ事実を教えてくれる。
どうやら既に計量を終えた後らしく、遠慮なくこちらの陣営も秤に向かう。
いつも通り最初は佐藤さん。
問題なくパス。
そして俺の番。
会長たちの息を呑む音が聞こえた気がした。
「…………五十八,……九㎏っ……」
ワッと、陣営から歓声にも似た声が上がる。
リミット一杯。
すかさず抱える様にして及川さんが俺を秤から降ろすと、補水液を口に運んでくれた。
「ゆっくり口に含んで…」
すぅ~~っと体に染み渡る水分。
生き返っていく。
一口一口、ゆっくり口に含んではこくりこくりと飲み込む。
全身の熱が毛穴から霧となって噴出すイメージを覚えた。
そしてそのままパックのゼリーを飲み込んでいると、取材陣が周りを囲む。
「チャンピオン、仕上がり具合は?減量かなりきつそうに見えましたが?」
「問題ありません。絶好調ですよ。」
「外間選手とツーショットお願いできますか?」
言われ見ると、向こう陣営もこちらに歩み寄る。
「明日は宜しく。」
差し出してきた手を俺が握ると、カシャカシャとフラッシュがたかれた。
握る手からは、熱を、力を感じた。
琉球の雄、言う程簡単な試合ではないかもしれない。
帰り道、いつも通り食事をとって帰ろうという牛山さんに待ったをかける。
「すみません。今日は妹と食事しようかと思ってるんで…」
「何だ坊主。お前妹なんていたのか。」
「う~ん、最近できたと言うかなんというか…」
「…まさか変な店に嵌ってんじゃねえだろうな?」
「あれ?牛山さん聞いてない?恵一郎さんが言ってたよ、親戚の子?預かってるって。」
妙な勘繰りをされたが、及川さんのフォローもあり難を逃れる。
その後、皆にはいつも通りにしてもらい、俺は一人だけ電車で帰る事にした。
一応妹に連絡を取ると、やはり食事を取ってはいないらしい。
恐らくは日がな一日、ずっとスマホをいじっているのだろう。
俺はそれを思い、ぐぅ~ぐぅ~なる腹を抑えゼリーを流し込みながら、車窓の景色を眺め今か今かと到着を待った。
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