第十六話 生きていれば色々ある

「これにしよっか。これでいい?」


「…うん。何でもいい。」


九月初めの日曜、通学などのため自転車を買ってあげる事にした。


亜香里はいらないと言ったが、あればどこかへ出かけようという意思も湧くかもしれない。


どこにもいかないのであれば、それはそれでもいい。


今日は少し神経が高ぶっている。


これから大事な試合があるからだ。


勿論俺の試合ではなく、目標でもありライバルでもあるあの人の試合だ。







帰り着き少し早めのロードワークをこなし、食卓には夕飯を並べ準備万端。


「亜香里ぃ~準備出来たからおいで~。」


妹の足音は静かだ。


そろりそろりといった感じに居間へとやって来る。


そして向かい合い、互いにいただきますと言ってから箸を伸ばす。


『本日行われるのはOPBF東洋太平洋タイトルマッチ。日本スーパーバンタム級期待のホープ相沢光一選手の試合。』


ピタリと伸ばしていた手が止まり、画面に釘付けになった。


『場所はオーストラリア、メルボルンにある……』


時差は二時間ほどらしいので、時差ボケの心配は無いだろう。


会場はそこまで大きくは無さそうだが、歴史を感じさせるおもむきある建物だ。


「……知り合い?」


「ん?うん。中学の頃からのライバル。俺が勝手に思ってるだけかもしれないけど…。」


「そうなんだ。何か…凄いね。j


そう、相沢君は凄いんだ。


だからきっとこの試合も快勝してくれるはず。


モニターには、俺の前で見せた事の無い険しい表情と鋭い眼光を覗かせる彼がいた。


そして自陣コーナー付近で軽くステップを踏み、左右を伸ばした姿を見て気付く。


固い。


いつもの動きでは無いと。


相手は地元のスター候補であり、オリンピック銀メダリスト。


それを加味してもなお固い。


不安を覚えながらの第一ラウンド、固唾を呑み見守る。


すると、やはり何かおかしい。


いつもならグイグイと前に出ていく彼が、距離を取って丁寧に左を伸ばしているのだ。


所謂、ポイントボクシング。


彼が一番嫌いそうなスタイルだ。


(右が少ない。故障…してるのかな。)


だが、試合自体は完全にコントロール下に置き、中盤に入っても相沢君優勢。


素人目に見て面白い試合かと問われれば否と答えざるを得ないが、同業が見れば舌を巻く。


変幻自在、リングを端から端まで使った軽やかなステップワーク、クリンチすらも許さないスピード、尽きないスタミナ。


相手が実力者である事は見るだけで分かるが、伸ばす手は悉く空を切る。


相沢君のパンチは九割が左。


殆ど右を打っていないにもかかわらず、実力者を完封しているのだ。


これを見てしまえば理解するしかない。


このスタイルこそが、彼の実力を最も発揮させうる距離を保てるのだと。


だが優勢に運びながらも、その表情は苦虫を嚙み潰したように歪んでいた。


試合は判定にもつれ込むと地元贔屓を懸念する俺をよそに、当たり前の如く相沢君の手が上がる。


今彼はどんな気持ちだろうか。


その表情は、とても歓喜とは呼べない複雑な空気を纏っていた。


「…なんか、あんまり嬉しそうじゃないね…。」


「うん…。色々ね、あるんだと思うよ。」


気にはなるが、今は連絡を取るべきではない。


恐らくは色々なものを背負い、自分だけの我が儘を貫く訳には行かなくなったという所ではなかろうか。


俺が知っている相沢君ならば、たとえ故障を抱えていたとしても頭のぶつかりそうな距離で打ち合ったであろう。


そしてそれこそが矜持でもあった筈だ。


そんな彼に何と言葉を掛けるのが正解なのか、俺には分からなかった。








九月も中旬に差し掛かり、妹も今の所元気に…とは言えないが、通ってはくれている。


「「ありがとうございましたっ!」」


来月の興行でも同じリングに上がる佐藤さんと、熱の入ったスパーをこなした後パソコンで相手の試合映像に目を通す。


家で一人確認するよりも、会長に色々聞けるジムの方が色々と都合が良い。


「…グイグイ来ますね。」


体格はがっしりとしていて筋肉質、身長は俺より少し低いくらいか。


「うん。サウスポーの利点をあまり気にしてない感じだね。」


一言にサウスポーと言っても二種類いる。


先天的な左利きと、後天的にボクサーとして矯正された左利き。


外間ほかま選手は間違いなく生まれながらのものだろう。


「確かにこれなら俺との相性は良いかもしれませんね。」


「でしょ?統一郎君の左が刺さりまくると思うよ?」


サウスポーが厄介な理由は何と言っても距離感だ。


それを自分から潰してくれるのならばこちらとしては有難い限り。


「モニターで間接的に見ただけだと、統一郎君の左は特に気にならないものだからね。」


会長曰く、俺の左は瞬間的に石の様に固くなるらしく、実際受けてみない限りは本当の意味の厄介さには気付けないとの事。


「でも体幹が凄く強い選手だから、潜り込まれそうになったら流石に距離取ろうか。」


インファイトになった時に湧き上がる歓声は癖になる。


集客の為だけではなく、それを味わう為に打ち合っている感もあるのは否めない。


「KО率が示す通りパンチもあるから、ガードはしっかり、ここ大事だよ。」


基本ガードは気を付けているつもりだが、この間の試合の様な事もある。


「後は…特筆すべき所は無いかな。無敗だけど圧倒的って訳でも無いし、ギリギリの判定もあるしね。」


何故だろうか、自分の事を言われている気がする。


まあ取り敢えず、普通にやれば勝てそうというのは分かった。















十月初め、亜香里が学校に行きたくないと言い出した。


いずれ言い出すだろうと思っていたので特に驚きはない。


「そっか…。うん、良いよ。」


実は明君に偵察を頼んだのだが、一人ぽつんと座っている姿が確認出来ただけで、別に苛めとかの様子は無いらしい。


減量もきつくなった時期、問題を解決するにしても試合が終わってからの方が良いだろう。


心が弱った状態では、中々正面から向き合うのは辛い。


ちょくちょく母さんから連絡が来ては、無理矢理にでも連れ帰そうかと言ってくるが、それでは良い方向に転ばない気がする。


何より、きっと藁をも掴む思いで俺を頼って来た筈の妹を、投げ捨てる形で手放せば、一生後悔しそうだ。


色々と問題の多い生活だが、何とかなる、そう信じたい。

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