第十四話 真夏
八月中旬、隣のプレハブにもリングが設置され、乾いた打撃音が重なり響く。
今日は明君の復帰戦当日、会長も牛山さんもおらず、清水さんがどちらも見ている状態なので中々忙しそうだ。
一応清水さんの立ち合いがあればスパーリングもOKとのお達しがあった為、俺と佐藤さんで四ラウンドこなしたばかり。
傍から見ればセコンドに立つのは牛山さんよりも経験者の清水さんが良いと思うだろう。
だが、選手目線から見れば違う。
セコンドに求めるのはなにも経験や実績だけではなく、そこにいてほしいという人間的な感情も含まれる。
そういう意味では、俺にしても自陣に戻った時あの厳つい顔が無いのは寂しい。
及川さんに於いても同様である。
そして今の練習生たちがプロの道を歩む時、清水さんがそういう存在になるのだろう。
「お~っす、帰ったぞ。」
練習メニューをこなし掃除をしている頃、元気な声を響かせ牛山さんが帰ってきた。
その顔は晴れやかで結果など聞かなくても分かってしまう。
清水さんも気になったのか、隣から急ぎやってきた。
「お疲れ様っす!…で、結果は?」
「まあな、色々反省点の多い試合だったけどよ、一応KО勝ちだ。」
後ろから入った来た明君に目を向けると、左瞼がはれ上がり、右の目じりをカットしたのか綿が当てられている。
しかし縫う程大きな傷ではなさそうなのが幸いか。
及川さんと会長も荷物を抱えてやってくると、挨拶を交わし試合内容を聞く。
「ちょっとね…力が入りすぎてて、がむしゃらに打ち合っちゃったんだよね。」
会長が苦笑交じりに語る。
「でも良いじゃない成瀬君。それでも勝ったんだからさ。」
及川さんの言う通り、どんな内容でも勝てば先に繋がるのがボクシングだ。
逆に、例え良い試合をしたとしても、負ければ道が閉ざされる事があるのもボクシング。
俺達の様な地方ボクサーは特に。
明君もそれを分かっているからこそ、連敗は出来ないと力が入り過ぎたのかもしれない。
しようと思えば大きなジムへ移籍する事も出来るが、恐らくしないだろう。
彼はここでやると決めたのだから。
俺のちっぽけな背中に憧れて。
だからこそ、相手が強敵だからという理由で逃げる訳にはいかない。
見せなければならないのだ。
この道を進む覚悟を。
例えどんな結果になろうとも。
八月下旬、二度目の防衛戦が決まった。
日程は十月二十日。
相手は同級六位デビット外間。
十二戦無敗九KОの戦績を誇る琉球の雄だ。
俺の戦績が十三戦無敗なので、そういう部分で多少なりとも注目を集められたら集客に繋がりそうだ。
そして試合が決まった数日後、お馴染みの局に加え、雑誌や専門チャンネルからも取材にやってきて対応するという日々が続いた。
「二度目の防衛戦となるわけですが、相手は無敗の強敵。王者としてどう迎え撃ちますか?」
目の前にはアイドル三人組がいる。
初めて会った時と比べれば、随分プロっぽくなったものだ。
「そうですね。どういう展開になるかは分かりませんが、面白い試合になると思いますよ?」
慣れたのは俺も同じかもしれない。
マイクを向けられても、緊張するという事が徐々になくなってきたのだ。
そして収録を終えると、彼女たちは親し気に語り掛けてくる。
「…なんか凄い選手いるんだよね?…大丈夫なの?」
そんな風に問い掛けるのは花さん。
恐らく高橋選手の事を言っているのだろうが、聞きづらい事をズバリ聞けるのは長所か短所か微妙な所だ。
「はは…まあ…何とかするよ…。それに今は目の前の強敵に勝つ方が先だしね。」
「こらっ、花。いつも言ってるでしょう……」
そしてリーダーの藍さんに諫められるのが毎度の恒例となっている。
「だ、大丈夫だよ~。遠宮さん強いし!いっつもばばば~って倒すもん……ね?」
その後、桜さんが場を解すというのもいつもの流れ。
「……頑張ってくださいっ!応援してますっ!」
どうやら機材の撤収も済んだらしく、三人娘はスタッフと共に帰っていく。
車に乗り込む直前、揃ってぺこりと頭を下げたのを見て俺も同じように返すと互いに笑いあった。
八月も終わりに差し掛かり、明日から学校が始まる様だ。
だが、ここで一つの問題が発生する。
亜香里が行きたくないとごねだしたのだ。
エアコンの稼働音とセミの鳴き声が響く空間で、俺はただ見つめてしまっている。
母からもこんな事を言い出すかもしれないと聞いていたが、まさか本当に言い出すとは思わなかった。
因みに、登校初日だけ母さんが連れ立って行く予定だったが、一人で行くからとそれを断ったのも亜香里だ。
「…行きたくない理由は?」
「…行きたくないから行きたくないの…。」
理由を聞いてもこの一点張りで、解決の糸口さえつかめない。
部屋に引きこもるなどどいう事が無いのは幸いと言えば幸いだが。
しかし不思議な事に、この家にいたいと思ってくれる事実には少し嬉しさも覚えていた。
「…よしっ、じゃあこうしよう!」
何を言われても行かない、俺を見つめる目からはそんな意志を感じる。
「初日は俺も付いてく。」
「…いや、だから行かないって…。」
「それでさ、その一日だけ頑張ってみて駄目だったらもう行かなくてもいいよ。」
亜香里は少し驚いたように切れ長の目を見開いた。
平静を崩された時だけ年相応の顔が覗くのは少し可愛い。
「…本当に?」
「ああ。今はネットでも質の高い教育を受けられるみたいだしな。勿論本人のやる気が必要だけど。」
正直良くは知らないが、世の中何とかなるだろう。
「…分かった…ご馳走様。」
亜香里はそう一言だけ呟くと、自室へと戻っていった。
「…少し甘すぎるかなぁ。」
そうは思うが、本人にしか分からない辛さというのは実際ある。
周囲からは只の我が儘としか見えなくとも、言葉に言い表せない葛藤や苦しみ。
母さんでも分からなかったであろうそれを、俺が理解してあげる事は恐らく出来ない。
だからこそ俺に与えられるのは、彼女だけの時間と空間、それしかないと思った。
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