第十一話 新トレーナー
七月初旬の土曜日、ジムの横にもう一つのプレハブ建築が出来上がった。
建物の規模としては殆ど変わらない外観のものが二つ並んでいる。
もしかしたらあまり差異を付けたくなかったのかもしれない。
「会長、サンドバックここで良いですか?」
当たり前だが、設備などの取り付けは大工さんがやってくれる訳では無い。
「う~ん、もう少し奥にしてもらえる?」
会長の指示を聞き、下で練習生たちが支えている上方、はしごに上った俺が鉄骨に固定用の鎖を括り付ける。
「成瀬君、パンチングボールはここでいいでしょ?」
「あ、そこは後でトレーニングマシン入るからこっちでお願い。」
こうして一つ一つ出来上がっていく光景は見ているとわくわくするが、一つだけ足りないものがある。
「会長、リングはここのスペースで良いんだよな?」
「そうですね。奥にマットを敷いて練習前の準備スペースを作りたいので、もう少し手前側にしましょうか。」
リングだけは流石に自分たちでの設置は難しく、これから業者に発注する様だ。
向こうとこちらの違いの一つに、床面が上げられる。
一方は全面マットレスだが、新しいこちらはピカピカのフローリング。
そうして数時間後、今出来る全ての準備を終える。
「う~ん、そろそろ来ると思うんだけどな。」
会長は先ほどからしきりに時間を気にしていた。
「ああ、新しいトレーナーさん見つかったんだっけ?」
「うん。数年前に現役引退したばかりのまだ若い人だよ?」
「へぇ~、こっちに移り住んでくれんのか?」
どうやらこちらの施設で練習生たちを重点的に見てくれる新しいトレーナーさんと、待ち合わせているらしい。
「どんな人だと思う?」
隣で眺めている明君へ声を掛ける。
「そうですね…あんまり怖くない人だといいなって思います。」
「ははっ、確かにね。でも明君は会長が見てくれる事が多いから大丈夫じゃない?」
「まあ、そうなんですけどね。」
因みに、佐藤さんは休日出勤のためここにはいない。
すると、後ろから車のエンジン音が聞こえ振り返る。
「うわ…何かすげえ集まってんな…。」
青いワンボックスカーから顔をのぞかせたのは、中々に厳つい顔をした男性。
「あ、成瀬会長、車向こうに止めていいですかね?」
「うん。あそこ並んでるでしょ。横につけてもらえる?」
「う~っす。」
軽い返事をした男性は指定位置に車を止めると、にこやかに歩み寄る。
「どうもみなさん。
第一印象としては、逞しい人といった感じ。
身長は恐らく百八十を少し超えた辺りで、両サイドを刈り揃えたスポーツ刈りが特徴。
「あれ?何か見た事あるな…。」
俺はこの人を何かで見た事があるが、その何かが思い出せないでいた。
「じゃあ紹介するね。本日からうちでトレーナーやってもらう清水さん。現役時代は東洋タイトルも取った名選手だよ。」
言われ思い出したが、五年ほど前のOPBFチャンピオンだ。
確か階級はミドル級だったはず。
「いやいやいやいや、憧れてた成瀬会長に言われると照れるなぁ。」
何と言うか、非常に賑やかな人だ。
「おう、俺は牛山だ。で、こっちの美人が及川さん。よろしくな。がっはっは。」
「ご丁寧にどうも。清水っす。宜しくっす。はっはっは。」
社交性の高い人というのは馴染む速度が異常だと再認識した。
簡単な自己紹介を終えると時刻は夕方に差し掛かっており、全員練習準備に掛かる。
「じゃあ、練習見学させてもらいます。」
清水トレーナーは一室の隅で腕組みをしたまま練習風景を眺め、仕事を終えてやってきた佐藤さんとも挨拶を交わすと直ぐに打ち解けていた。
「やっぱ持ってるやつは違うな~。」
練習を終えストレッチしている俺に清水さんは語り掛ける。
「持ってる…ですか?」
「ああ、何不思議そうな顔してんだよ。あの御子柴裕也に勝ったんだぜ?そんなん持ってなきゃ無理だって。」
どうやら彼の言う持っているとは運とかそういう意味らしい。
「でも勝ったって言ってもあれは…」
「あれは誇るべき勝利だっ!俺なんかテレビ見ながら泣いちゃったよ。ああ…成瀬さんの弟子だなぁって。」
こう熱く語られると、何だか俺まで誇らしくなってくる。
「清水さんはどうしてこのジムのトレーナーに?」
佐藤さんの問い掛けはもっともで、タイトルを取るほどの選手なら大手ジムのトレーナーにもなれた筈だ。
それに正直、本業これ一本で生活というのは恐らく無理だろう、少なくともうちでは。
「俺はな、地方の星に憧れてボクシング始めたんだよ、会長の事だぞ?それで成瀬ジムに入ってプロになったんだけどよ…」
聞けば、彼以外重量級の選手がいない現状を憂い、成瀬ジム会長から他の大きなジムへの移籍を勧められたらしい。
段取りまで全て整えて心機一転新たな場所で練習に励み、東洋タイトルを取り四度防衛したのち失い数年後引退、トレーナーの道を志すに至った。
「でな、いつかは自分のジムを持ちたいって思って勉強してたんだけどよ、どうせなら憧れの人にトレーナー業を教わりたいだろ?」
それは会長にとっても有難い申し出で、まさに需要と供給が合致したと言える。
翌週の月曜日ジムに足を踏み入れると、会長と清水さんが何やら綿のようなものを手に話していた。
「へぇ~、こんなものがあるんすね。」
「そう、僕も恵一郎さんに教えられて初めて知ったんだけどね。今はこれを使えば相当深くカットしない限りは直ぐ止まるよ。」
俺は挨拶したあと奥で座り、バンテージを巻きながら耳を澄ませていた。
「どうやって使うんすか?」
「ワセリンと混ぜて圧迫止血が基本かな。」
「こうっすか?」
「そうそう、後は……」
どうやらトレーナーに必要な知識を教わっている様だ。
言葉遣いは丁寧とは言えないが、その姿勢と表情は至極真面目であり、その本気度を伺わせる。
俺は今まで目じりをカットした事はないが、この技術に助けられる日もきっといつかは訪れるだろう。
「じゃあ清水君、練習生たち見てもらえる?」
「はいっ!お~し、じゃあやるぞお前ら。特に木本には厳しく行くぞ。」
何故木本さんだけがと思い耳を澄ませていると、
「お前ミドル級でやるそうじゃねえか。だったら俺の夢を継ぐ男だ。ビシバシ行くぞ。」
向こうのリングが設置されるまでは、この賑やかな環境が続きそうだと思い少し頬が緩んだ。
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