第十話 道は続く

試合後の車中、珍しく会長に忠告を受けた。


助手席から後ろ斜めに振り返る体勢で、少し厳しめの顔をしている。


「統一郎君、ああいうやり方は先に繋がらないから、今後気を付けて。」


いつもの柔らかな語り口調ではなく、刺すようなと表現すればいいだろうか、そういう厳しさを感じた。


「何が取り返しのつかない怪我に発展するかなんて…誰にも分からないんだ。」


自分でも無茶をした自覚はある為、何も言い返せずしゅんとしてしまう。


「…コホンッ…まあ、ちょっと強く言いすぎたかもしれないけど、君の場合減量も厳しいから余計に心配なんだよ。」


会長は咳払いすると、いつもの柔らかめな口調に戻った。


事実、そういう事故の話はそれなりに聞く。


過酷な減量をする事で脳への損傷も大きくなり、そのまま息を引き取ったというケースもあるらしい。


だがそれでも辞めようと思えないのは何故なのだろうか。


自らが壊れる可能性を賭しても続けてしまう。


故に、麻薬のような魅力があると言われるのかもしれない。


少し重苦しい空気が車内を包んだが、及川さんの明るい声がそれを払拭してくれた。


「それでもさ、今日は快勝なんじゃない成瀬君?」


及川さんが座っているのは俺の隣。


明るく声を掛けられた会長も、軽く微笑み頷いた。


佐藤さんやハンドルを握る牛山さんからも、少しホッとした雰囲気が伝わってくる。


そして一言。


「なあ坊主、そろそろ良いんじゃねえか?この階級に拘らなくてもよ。」


そう、今回のリミットオーバーを受け、本格的に考えなければならない問題だ。


俺は父が戦ったこの階級でやっていきたいと思っている。


だがそれでも、普段の体重が七十㎏に達しようという今、それも厳しい。


何より、そんな意地を張り結果が出ない等という事にもなれば、支えてきてくれた人たちに申し訳が立たない。


「そう…ですね。」


これから考えます、という意味を込め、俺はただ一言だけ返した。







翌日、叔父に試合後の検診を受けている時にもその話になった。


「うん、少し腫れてきたが骨に異常がある訳でも無し、足が攣ったのも疲労と減量から来るもんだ。」


内科の診察室、まだ病院が開いていない早い時間だ。


身内特権を行使している形なので気が引けるが、通勤前に診てもらえるので有難い。


「統一郎…お前階級上げろ。」


叔父は遠回しになどせず、分かりやすく端的に伝えてきた。


「過度な減量にメリットなんかねえ。そりゃ軽い階級で出来るって事がメリットと思うかもしれねえが、確実に選手生命は縮む。そんなんメリットとは言えねえよ。」


真っ直ぐ、真摯に瞳を見つめてくる。


「うん…分かってる。でも今はベルト持ってるから…。」


「そうか…。だが一戦か二戦だ。その後は転級するって約束しろ。」


十秒ほどの静寂のち、叔父の視線に応え俺も真摯に応える。


「……分かった。後二戦、チャンピオンカーニバルを越えたら階級を上げるよ。」


これが譲歩できる最低限。


王者として最強の挑戦者から逃げる形での転級だけは認められなかった。


「それがいい。あいつも言う筈だ。『拘るところ間違えんな』ってよ。」


「ははっ、確かに言いそう。」


多少の寂しさを胸に秘めつつ、決意を刻み込んだ。









仕事を終えジムの引き戸を開く。


中からは既に軽快な音が響いており、熱気が伝わってきた。


「「「「「ちゃ~~っす!!」」」」」


練習生たちに挨拶を返しつつリングを見ると、会長は明君のミットを持っている。


「どうした坊主、やけに神妙な顔つきしてるじゃねえかよ。」


練習生たちの指導をしていた牛山さんが歩み寄り声を掛けてくる。


「そんな顔してますかね?」


「おう、何か離婚届出しに行く時の顔みてえだぞ。」


そんな顔をしている人間を見た事があるのだろうか、少なくとも俺は無い。


「何ですかそれ…。まあ、少し大事な話をしようかとは思ってますけど。」


二言三言話した後、牛山さんは練習生たちの指導に戻っていった。


俺は奥のスペースに座り込み、練習風景を眺める。


すると今日は佐藤さんがいないせいか少し違和感を感じた。


明君のミット打ちが終わると、今度は教わりながら練習生たちがミット打ち。


ぎこちないパンチにも綺麗な音を鳴らして受ける会長の手腕は流石だ。


快音が響くと打つ方にも自信がつき、その自信が動きにも表れてくる。


五人の練習生たちが二ラウンドずつこなしていき、最後の一人は大柄な木本さん。


そのまなざしはとても真剣で、会長の指示一つ一つにしっかりと頷き返しパンチを放つ。


長年サッカーをやってきただけあり、そのフットワークは中々軽快だ。


そして練習生たちの指導を終えた会長がこちらに視線を向けると歩み寄り、俺の前に胡坐を掻く。


「何だか真面目な話がありそうだね。どうしたの?」


いつもの穏やかな顔、話しやすい空気を作ってくれているのだろう。


「あ、はい。チャンピオンカーニバルって来年ですよね?」


「そうだね。予定としては来年の二月か三月になるだろうね。」


「…その試合を最後にライト級に上げようと思うんです。」


「……うん。こちらとしては何も反対する理由は無いよ。君が良いならね…。」


「一応考えての結論なので…。」


「分かった。じゃあ、後二戦気を引き締めて行こう。」


会長に肩をポンと叩かれ、互いに笑みを返す。


どうやら室内にいる全員が聞き耳を立てていたらしく、こちらに向ける視線を感じた。


「じゃあ、タイトルも返上だな。その後はライト級で更に上を狙うんだろ?」


牛山さんの言葉には勿論と返しておく。


「ん?そういや会長もライト級だったな。」


「はは、そうですね。僕の夢を継いでくれると思えば少し感慨深いですよ。」


そういえば父の階級だからと拘っていたが、ライト級は会長が夢半ばでリングを去った無念の階級。


そう思い至れば、まるでこの流れがごく自然なものであったかの様にさえ思えてくる。


会長の夢を背負う為にも、この戦場を有終の美で飾る事に専念するべきだろう。


俺は志を新たに家路につくと着替え、ロードワークへと繰り出していった。

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