第八話 スイッチボクサー
「最後のは偶然…ですよね?」
自陣で椅子に腰かけると目の前で屈む会長に問い掛ける。
「…そうだよ。でもアクシデントでも視界を損なうのは怖い。気を付けていこう。」
偶然かどうかなど、今ここに至ってはどうでもいい事だったと反省し、指示に耳を傾ける。
「頻繁にスイッチしているけど頭の位置は殆ど変わってないね。」
そう言われ思い返すと、確かに飛んでくるパンチの距離感は変わっても標的の位置は変わっていなかった。
「…つまり、気にする必要はないって事。そして…折を見てあれを狙おうか。」
あれというのはサウスポースタイルに切り替えてのコークスクリューブロー。
向こうがスイッチするならこちらもやってやろう。
「サウスポースタイルになった時、高確率で初撃は左ストレートを放ってくる…それが狙い目だよ。」
セコンドアウトのコールが響く。
立ち上がり目を瞑ると、その光景を思い描いた。
そしてゴングが響くと同時、キュッとシューズを鳴らし踏み込みジャブ二発。
「…シッシッ!」
得意の左で自分の距離を確保したのち、ゆったりと構える。
(観客が期待しているのはKО。決して判定なんかじゃない。)
リング中央に陣取るのは、打ち合いが得意ではない俺にとってある種の覚悟が必要になる。
この場所を譲らない為には、相手を下がらせる必要があるのだから。
もしそれでも下がらず前に突き進んでくる相手には、否応なく打ち合いになるだろう。
幸いこの相手は慎重な選手だ。
今の所は、俺を眺める様に周囲を回りながら様子見に終始している。
パシンッ、バシンッ、パンッ、パシンッ。
互いが伸ばした左で探り合う静かな展開。
(スイッチする瞬間を見極めろ…何か癖は無いか…予備動作は…。)
考えながら伸ばした左に、相手は右フックを合わせてくる。
俺は伸ばした左を素早く引き戻しガード。
(ん?左構えに変わってるな。)
どうやら打ちながら体の軸を反時計回りに回転させ、右フックと同時に右足も前に突き出してきた様だ。
(何かの本で見た事ある気がするな…これ。)
そんな悠長な事を考えている暇は無く、眼前に伸びてくる左ストレート。
「…っ!……シィッ!!」
しっかりガードした後は、こちらの番と言わんばかりに右を伸ばす。
(距離が近いな…。)
これも厄介な事の一つ。
どうやらフックからスイッチする動作には、距離を詰める意味も含まれているらしい。
当然気付いた時には踏み込まれており、事前に察知できねば後手に回らざるを得ない。
「…シュッ!シィッ!」
重心を下げ、左フックから右アッパー。
すると相手は打ち合いに応じる気は無いのか、右構えに戻しながら下がっていく。
(ん~…ストレート系からスイッチする場合もあれば、フック系からの時もある…か。)
その全てが流れる様に行われるので、事前に察知するのは現状かなり困難と言わざるを得ない。
カンッカンッ。
拍子木の音が聞こえた。
頭の中に様々な思考が乱れ飛ぶ中、眼前の敵はワンツーの構え。
(…ん?)
その時、何故か分かった。
これは、二発目の右ストレートから左構えに変えてくると。
そして案の定、相手は左構えを取ると同時、左ストレートを真っ直ぐ伸ばしてくる。
それをガードした所でゴングが鳴った。
自陣で椅子に腰かけながら、先ほどの事を考える。
「…さっき何故かスイッチするって分かったんですよ。何か癖有りますかね?」
俺の言葉に、会長がワセリンを手に取りながら口を開く。
「…本当に微妙な差でしかないんだけど、多分爪先の向きじゃないかな?」
言われ思い返すが、全体を俯瞰して眺めた時に何となく感じただけなので、言葉にするのが難しい。
実際にもう一度見てから判断したい所だ。
正直ここまで僅かな差になってくると、実際向き合っている本人しか分からないという事もあるだろう。
考え込んでいる俺を信用してか、会長から指示らしい指示はないまま第三ラウンド開始を告げるゴングが鳴った。
(…もう一度見たい。)
「…シッシッ…シッシッシィッ…!」
左で弾幕を張り、右ストレート。
ここまで手を合わせてきて、戦力はこちらに分があると実感していた。
ならばあちらは、それを発揮させない為にリズムや距離感を崩す必要があるだろう。
その手段は恐らく一つしかなく、リードブローの性能差を見せつける形でそれを誘っているのだ。
(…見たいのはストレートからのスイッチだ。フックじゃない…。)
「…シッシッシッシッシッシッ!!」
相手は踏み込みこちらの左に右フックを被せようとしたのだろうが、それは許さない。
速射砲で弾幕を張り下がらせると、サイドに回り込もうしているのを察知し、こちらも左足を軸にして回り相手を正面にすえる。
(ワンツーが来る…。)
その一回でしっかりと確認出来た。
ワンツーの二発目、右ストレートを放つ直前。
それを支える右の爪先、その向きがスイッチする時だけ僅かに外へ向いている事を。
(…勝負を賭けるには充分な情報量だ。)
伸びてくる左ストレートをしっかりガードしながら、その目は倒すべき標的の全体を俯瞰し眺めていた。
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