第六話 控室から眺めるリング
この日に備えてシューズとトランクスを新調したからか、少し違和感を覚えた。
モニターから聞こえる歓声が、試合の白熱振りを伝えてくれる。
俺は控室で一人寝台に座り、佐藤さんの試合映像を眺めていた。
この人のボクシングは、一言で言うなら非常に知的。
常に相手の二手三手先を読み、自分の距離を絶対に譲らず試合を支配する。
スーパーバンタムでは長身の部類に入り、リーチもある為、それを最大限活かした試合展開を作りあげるのだ。
それに加えスタミナもある。
リングを大きく使い、相手が痺れを切らし無理な体勢で打って来るまで辛抱強く待つ。
それは簡単なようで簡単な事ではない。
誰から見ても優勢と分かる状況で無ければ、ボクサーは不安になる。
少なくとも俺はそうだ。
このラウンドは取っているのか、それとも…。
そんな不安が蓄積していくと、どうしても明確に優勢と思えるラウンドが欲しくなってくる。
そして自分の距離やリズムが崩れ、隙が生まれていくのだ。
「……さすが。」
思わずぼそりと呟きが漏れてしまった。
余りに見事なカウンター。
第五ラウンド中盤、相手が追い縋り伸ばしてきた右を最小限の動きで躱すと、狙い澄ました右ストレートが内側を抉る。
そして追い詰めてからの切り替えも早い。
先ほどまでのスタイルとは違い、足を止め猛然とラッシュを仕掛けていく。
そこから完全に足に来ている相手を逃さず、苦し紛れに放ったフックにカウンターを合わせ試合終了。
まさに見事というほかない。
リスクを取って打ち合うべき所はしっかり打ち合い、それ以外は辛抱強く待つ。
安定さという意味では俺と比べるべくも無いだろう。
「完勝でしたね。」
控室へと戻ってきた佐藤さんに声を掛けハイタッチ。
「大きな会場で少し緊張しましたけど、勢い付けられましたかね?」
俺は勿論と頷く。
後ろでは、氷の入ったケースの横でなにやら会長と話している木本さん達練習生と明君の姿もある。
「この後は会場へ?」
「はい、遠宮さんもあまり人が多くない方が集中できると思いますし。」
確かにそういう一面もある。
そう言ってモニターに目を向けると、次の試合が始まっていた。
客の入りは上々。
確かに安く借りられたとは言っていた、しかしこの規模の会場で赤字を出せばうちの様な弱小にはきつかろう。
全ての席が埋まっている訳では無いが、チケットは九割以上捌け放映権等の収入もある、利益は出ている筈。
その事実が己への注目度を否応なく実感させる。
求められているのは、良い試合ではなく結果だ。
俺はモニターから視線を外すと、寝台に腰掛け静かに瞳を閉じた。
直接肌を包むガウンの感触にも、もう慣れた。
セミファイナルも終盤。
体は解れ準備万端。
バンテージチェックも済み、手には日本製の真っ赤なグローブ。
セコンド三人は、何も語らずただモニターを眺めている。
試合は第七ラウンドに入り、マーク堀田選手が全てのラウンドを取る大優勢。
この安定した選手をたった一ラウンドでKОした相沢君はやはり凄い。
佐藤さんと同じ階級のうえ同じ地方選手、もしかしたらいずれはそういう事もあるかもしれない。
二人供レベルが本当に高い者同士、一体どんな試合になるだろう。
(何を考えてんだ…。今は自分だろ。)
雑念に囚われ集中できていない。
試合はそのまま判定になり、大差をつけ堀田選手が勝利した。
いよいよ出番が近づき、俺は大きく息を吐く。
顔を上げると、少し心配そうな表情をした練習生たちの顔が見える。
全員口を真一文字に結んでおり、唾を呑む音さえ聞こえそうなほど静かだ。
それから少し経つと、廊下を歩く誰かの足音。
恐らく係員だろう。
声が掛かるのを待たずに俺は立ち上がった。
室内に視線を巡らし、少し笑みを浮かべる。
そして会長と視線が合うのとほぼ同時、ノックの音が聞こえた。
控室を出て通路を歩く。
壁は染み一つない、真っ白な塗装が施された綺麗な通路。
歴史は感じないが、これからはここが俺のホームグラウンドになる。
日本王者としてこのベルトを守り、東洋、そしていつかは世界へ。
花道を作る後援会の人達の顔からは、そんな期待が見て取れた。
「遠宮君、頑張れ!」
新田さんは少し緊張した面持ち。
「統一郎、サクッとやっちまえよ!」
叔父さんが突き出してきた拳に、視線は向けずグローブだけを当てる。
続いて佐藤さんと明君、同門と拳を合わせ通路を抜けると、広い空間が眼前に広がった。
前を進む牛山さんが誇らし気に日本チャンピオンベルトを掲げ、こちらが王者である事を観衆に告げる。
会場に響いているのは【飛翔】というクラシック曲。
これは彼女達アイドル三人組とやり取りして決めたものだ。
『私達はもう充分宣伝していただけました。なので……』
そんな事を語った彼女達にも、色々物思う所があるのだろう。
両脇の柵を挟んで大勢の観客が手を伸ばしてくる。
それに応えながら、俺はスポットライトに照らされたリングへと進んでいく。
一度リングを見上げ松脂をシューズに馴染ませると、噛みしめる様にゆっくり階段を上がりロープを潜った。
ライトの眩しさに目を細める、リングにはおなじみと言ってもいいだろう、リングアナの後ろに並ぶあの三人娘の姿。
リーダーの藍さん以外は、少しそわそわと落ち着かない様子で右に左に視線を巡らせている。
そして対角線上には、今夜俺が倒すべき男の姿があった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます