第五話 声が聴きたい

六月二十五日、試合まであと五日。


正直、苦しい。


一人で生活の全てをこなしながら進める減量が、ここまで苦しいとは思っていなかった。


何だかんだ、今まで減量中は葵さんに甘えたり、叔父が洗濯をしてくれていたりと支えられてきた。


葵さんが離れ、自ら選んだ一人暮らし。


もう弱い自分からは卒業しなければならない、俺は王者なのだから。


風呂から上がり、洗面台の前に置いた体重計に乗る。


六十一,五㎏。


悪くない数値だ。


だが、体に力が入らない。


明らかに今までの自分より、余計にパワーダウンしているのを実感してしまう。


それでも湧き上がる不安には目を瞑り、ストレッチをこなしてから床に就いた。







六月二十九日月曜日、前日計量当日、かなり早めの到着だ。


無駄に立派なドーム状の外観を持つ建物を眺め、その中を進む。


計量会場は泉岡アリーナ一階、第一会議室。


陣営全員で入室すると、やはりまだ相手の武藤選手は到着していない様だ。


室内には今までとは違い、マスメディア関係も多く見え注目度の高さを肌で実感する。


「統一郎君、早く済ませちゃおう。わざわざ待つ必要もない。」


会長は俺の体を気遣ってか、支える様に背中に手を回し計量台へと促した。


俺は佐藤さんと二人並んでその前に立つと、どうぞ先にと促す。


「……五十五,一㎏、佐藤選手OKです。」


いつも通り余裕が覗く表情の佐藤さん。


となれば続くは俺だが、来る前量った時、実はリミットを僅かに超えていた。


一目見れば、肌から粉を吹き分かりやすい脱水症状。


少し歩くだけで世界が揺れ、めまいが襲う。


そんな中、不安を心に抱きながら計量台に足を乗せた。


「……五十…………九,〇一㎏、遠宮選手…リミットオーバーです…。」


やってしまった。


だが、オーバーしているのはほんの僅か、誤差と言ってもいい程度。


大した事はない。


大丈夫、大丈夫だ。


「会長…少し走ってきます…。」


会場を出ようとした時、王拳ジムの面々が到着した。


そしてこちらを一瞥した後、計量台へ。


「…五十八,九㎏。武藤選手、スーパーフェザー級リミットです。」


係員の声が聞こえたが関係ない。


何か言いたげな会長を背に、俺はフードを深めに被り駆けだした。

















外は暑く、憎らしいほどに太陽が大地を照らしている。


喉が渇いた。


苦しい。


足が重い。


乱れた息が戻らない。


ヒューヒューと嫌な呼吸音が聞こえる。


どこから聞こえてくるのかと思えば、俺の口からだ。


意識が朦朧としてくる。




「…はぁ…はぁっ…はぁっ……」




………あの子の声が聞きたい。



















一時間と少しを経て戻った俺は、下着まで全てを脱ぎ捨て計量台に乗る。


「……五十八,八㎏………」


読み上げた係員の声と同時に陣営から歓喜の声が上がった。


及川さんなどは、背中から包むように俺を抱きしめてくれる。


会長、牛山さん、佐藤さん、皆心底ほっとした顔だ。


手渡された補水液をゆっくり口に含むと、のどを潤しながら飲み込んでいく。


すると、背中に感じる視線。


何かと思い見れば、そこには坊主頭と大きな瞳が印象的な男、武藤一志が立っている。


だが、交わす言葉など持ちえない。


互いに一瞬視線を交えるとそっぽを向き、陣営を引き連れ場を後にした。


王者としては情けない限り。


ここまで心に余裕が無かったのは、一体何時以来だろうか。


出口には手帳片手に立つ松本さんの姿もあったが、軽く頷くだけで何も聞いては来なかった。


この人にまで気を使わせてしまっている様だ。


全く……器が知れる。













六月三十日火曜日、試合当日。


一日の休息と栄養補給の甲斐もあってか、少し心に余裕が戻ってきた。


会場である泉岡アリーナへは二台の車で乗り付けた。


一台は牛山さんが運転するミニバン。


もう一台は練習生の木本さんが運転する乗用車。


予定の合う者は色々手伝ってほしいと会長から頼まれていたようだ。


「じゃあ、当日計量済ませちゃおうか。」


どうやら付き添うのは及川さんだけらしく、俺と佐藤さんはその背中に続く。


場所は同じ第一会議室だ。


扉は開かれており、視線の先には秤に乗る坊主頭の男が見える。


数人のスーツを着た人達も見え、確か協会の偉い人だ。


タイトルマッチだから統括団体の認定が必要だとか、そんな話を聞いた事がある、わざわざ足を運んでくれたのだろうか。


そんな事を考えながら視線を巡らせ、秤から降りた武藤選手と一瞬視線が合ったが、昨日より余裕があるせいかそこまでピリピリとした空気にはならない。


軽く頭を下げた後、俺と佐藤さんも量り終え、その足で控室へと向かった。








「わぁ、凄いですね。モニターまであるんだ。」


控室に入り見回すと、広さも申し分なく試合の流れを確認できるモニターも付いている。


そして壁には大きな鏡、隅には医療用にも使えそうな立派な寝台が二つ。


流石は県政の汚点とまで呼ばれるほどに費用をかけた施設だ。


「ほらほら、ボケっとしてないでストレッチ。」


及川さんは全く動じる事無く、いつも通りにマットを敷くときょろきょろと落ち着きなく見回す俺達を促した、


そして胡坐を掻く俺達と向かい合わせに座ると、順番にバンテージを巻いていく。


とは言え、試合開始までまだ二時間以上、メインイベントとなればもっとだ。


ストレッチを終え軽くシャドーを開始した佐藤さんを横目に、俺は寝台へと身を預ける。


(初防衛戦、緊張するって聞いたけど、意外にいつも通りかな。)


そんな事を思いながら、俺は静かに深呼吸を繰り返した。

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