間章 理性の拳
「晴斗、ちょっと試合まで間隔空くかもしれん、悪いな。」
語るのは専属トレーナーの
「…別にいいよ。俺はやるべき事やるだけだし。」
桐野さんは返答に軽い笑みを返し、他の練習生たちを見るためきびつを返した。
最近はジム内の景色も様変わりし、フィットネスのおばさん達と練習生が混じり合いカオスな光景が広がっている。
まあ、方向性が所謂ヤンキーみたいな奴等に偏っているのは、間違いなく俺のせいだろう。
髪を様々な色に染め上げた男達を横目に、俺はサンドバッグへと足を向ける。
手に嵌めるのは特注のグローブ。
バンテージの中に衝撃吸収素材を挟み、グローブの綿の部分にも同じものを詰め込んでいる二重構えだ。
その上で、打つ力は七割にしろと言われている。
それでは試合でも加減して打つ癖がついてしまうのではと思うかもしれないが、実際そうなっている。
だが、今の所それで倒せなかった奴はいない為、何の問題も起きていない。
「しっかりボクサーになったな、高橋君。」
隣で眺めていたオーナー兼会長の黒川さんが語る。
その言葉は今の俺を表すのに正にふさわしい。
今だから分かるのだが、新人王戦で敗れた時の俺は只のチンピラでしかなかった。
力一杯叩きつけていたあの時のパンチより、今の七割の方が人を壊すという意味では圧倒的に上だろう。
「…おや、呼ばれてんな。は~い、今行きますよ~。」
フィットネス会員のおばさん達に呼ばれ去り行くその背を眺め思う、成長とは何だろうと。
今の俺は非常に落ち着いており、一時期色々あった母さんとも普通の付き合いが出来ているし、大学も一応普通に通えている。
昔はイライラした細かいパンチを打つスタイルも、今では何の違和感を持つ事も無く身に馴染んだ。
だからと言って、満たされない何かがある訳でも無く、リングに上がればスタイルとは裏腹に内側から闘争の炎が燃え上がる。
(そういえばあの時は…何故かおかしな事ばかり考えてたな。)
新人王戦で現王者に敗れた後の俺を思い出すと、今では理解できない思考をしていた。
「…………お前は俺の…俺達の夢だ。頼むから…あんまり打たれないでくれよ…。」
新人王戦後の控室、懇願する様な桐野さんの言葉は俺の胸の内に残り続けた。
だがそう簡単に変われるのなら人間苦労は無い。
当然、教え通りスパーリングでは左を軽く伸ばして相手を牽制するのだが、どうしてもイライラしてしまう。
力任せに暴力的な拳を叩きつけたくなってしまうのだ。
そして変な事を考える様になっていく。
(…格闘技って…そもそも何の意味あんだ?)
ボクシング、キックに総合、空手に柔道、様々な競技があれど……、
(本当にヤバいやつ……本当にイカれた奴にはそんなもの意味ねえだろ。)
その時の俺が思い浮かべていたのは、車で突っ込んでくる奴や、路上で後ろから刺してくる奴、懐から取り出した拳銃をいきなり発砲してくる奴、寝入った隙を狙い家に火をつける奴、果ては食事に毒を盛る等々。
どう考えても日常で遭遇する事はないであろう場面の数々。
だが、それはある一面も確かに示している。
手段を選ばない奴には格闘技など何の役にも立たない、という確かな事実を。
そして、自分から大切なものを奪っていく誰かがそういう奴であった場合、自らが無力であるという事実も示している。
馬鹿な話だが、それを考えるたび胸が酷くモヤモヤした。
今考えると、俺自身がそのイカれた奴であったのではないかとさえ思える。
そんなある日、どういう話の流れであったかは思い出せないが、それらをジムで伝えてみた。
「…ん~…そんな事考えてる暇あるならって言いたい所だが…ちょっと真面目に考えてみるか。」
鼻で笑われるかと思ったが、桐野さんは真面目に考えてくれた。
「…そもそもイカれた奴に襲われる状況って…どんな状況だよ…。」
考えてはくれているが、こんなバカげた疑問に時間を取らせるのも流石に悪いと思い始める。
だが、そこで話に加わってきたのが黒川会長だった。
「……なるほどな。俺も同じこと考えたなぁ~…あ、族時代の話だぞ?」
その言葉に、俺も桐野さんも意外そうな目で見つめてしまう。
「高橋君はさ、人の『強さ』と『戦力』が別物だってのは理解しているか?」
「…強さと戦力?…武器を持ってるかどうかって事か…ですか?」
「うん、まあ近いな。実際格闘技の世界チャンピオンでも、優れた武器を持った子供一人に負ける。これは現実だ。」
想像する、極力反動の抑えられた銃を持つ子供が、手の届かない所から二メートルの大男に対し撃ちまくる。
うん、普通に負けた。
銃弾が当たるかどうかは運否天賦である以上確実には言えないが、大体負けるだろう。
「つまり何が言いたいかというと、リングは『戦力』を競う場ではなく『強さ』を競う場であるという事実だ。」
何となく分かるようでいて分からない説明だ。
「じゃあ、強さとは何だ?」
「…肉体の強さとか…技術とか…後は、気合だな。」
「はははっ、気合とは高橋君らしいな。でもそれが正解だ。リングとは『理性』を競う場所だと俺は思ってる。」
いきなり強さとはかけ離れた文言が出て、俺は混乱した。
「長期間に渡る練習や減量、痛みや苦しみに耐え、決められた時間に決められたルールで互いがぶつかり合う。これは人が理性の生き物だという事を示している。」
この人は意外に哲学的な事を言うのだなぁと、思わず感心して聞き入った。
「先も述べたように、人の戦力とは持つ武器の性能とそれを扱う技量で決まる。ならば、人の強さとは何を以ってはかる?」
「…………ルールの中で?」
「そう、人の強さは『理性の檻』の中でしかはかる事は出来ない。勿論、それは言論であったりテクノロジーであったりするが、何でも決められたルールがあり、『人間』はその中で競うんだ。」
俺達が聞き入る中、黒川さんは最後にぼそりと締めくくりの言葉を述べる。
「……それを捨てるなら…そいつはもう『人間』ではない。お前は…その拳に何を乗せる?」
その瞳は、俺の奥深くまで覗き込む様な、ゾクリとする冷たさを宿していた。
この時初めて分かってしまった。
幼少より憧れ続けたこの黒川という男は、ただ人が良いとか強いという一面だけで慕われていた訳では無いのだと。
思い返せばこの時からだった、イライラしなくなったのは。
何故なら俺の拳は、強き人間としてあるべきという『信念』、そして『理性』で作られているのだから。
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