三章最終話 君が望むなら
三月十一日の夜、泉岡にあるホテルへと向かう。
その一室には彼女が待っている。
部屋の明け渡しも済み、明日帰路に着くため今日だけのホテル住まい。
この町では一番豪奢であろうホテルの一室。
ノックすると、嬉しそうな声と共に彼女が顔を出した。
「ありがと。こんな良い部屋取ってもらって。」
最後に過ごす夜、せめていつもとは違う空気を味わいたかったのだ。
引っ越しに掛かる費用は、少々強引に説き伏せる形となったが、全て俺が負担した。
つまらないプライドだと思われても構わない。
それでも彼女の為に、どうしても何かがしたかった。
こちらにはいつものルーチンをこなしてから来たので、時刻は既に二十二時を回っている。
シャワーを浴び、ベッドに腰掛ける彼女の横に座ると、
「どうする?しよっか?」
誘うような表情で彼女が語り掛けてくるが、そういう気分にはならなかった。
「…ううん、今日は只こうしてたい。」
返答を聞いた後、寄りかかり体を預けてくる。
そのままベッドに潜り込むと彼女の髪を撫でながら、言葉を交わす事も無くただ静寂を噛みしめた。
そうして小一時間程経ち少し眠気が出てきた頃、彼女が口を開く。
「私ね、一郎君に会えて良かったよ。本当に。」
ならば傍にいてほしいと口から零れそうになるが、グッと飲み込んだ。
「どこにいても応援してるからね。」
目の前で応援していてほしい、そんな思いを言葉にはせず、ただ抱きしめる。
「知ってるかな?私ね、ある時期からいっつも一郎君を眺めてたんだよ?」
高校の時の事を言っているのだろう。
その瞳はどこか遠くを懐かしんでいる様だ。
「諦めてたんだけどなぁ。とんでもない幸運が舞い込んできちゃった。ふふっ。」
本当に幸運だったのは、間違いなく俺の方だろう。
「一郎君は一緒に外を歩くと、色んな物に目をキラキラさせてさ、子供みたいに。」
ボクシング以外の事など何もしてこなかった。
彼女と会うまでは。
「楽しかったぁ~。海にも行ったよねぇ、あと水族館。」
俺が知っている世界の殆どは、彼女と歩いた場所ばかりだ。
「ふふふっ、クラゲが好きなんだよね、一郎君は。」
彼女だってはしゃいでいた。
俺と同じくまるで子供みたいに。
「映画とかもっと行きたかったね。他にも……」
眠りに誘う心地よい声。
最後の夜になる、眠りたくはない。
「……いいんだよ、眠っても。今は、頑張る時じゃないよ?」
彼女のぬくもりは、俺に抗う事を許さなかった。
優しく包み込んでくる熱は、抵抗する意思すら削いでいく。
「……おやすみなさい。」
彼女の、葵さんの声をもっと聴いていたい。
そんな思いは叶う事無く、意識は微睡みの中に落ちていった。
三月十二日、憂鬱な日。
朝から気持ちは沈んでいた。
この日が来なければいいと何度も思った。
それでも当たり前に時は刻まれ、その日はやってくる。
「そんな顔しないで……。笑ってお別れしよ?…ね?」
自分では精一杯の強がりを見せていたつもりなのだが、表情が歪んでいただろうか。
新幹線到着予定時刻までは、まだ三十分以上ある。
だが、その時間があまりにも短く、心細く感じられた。
掴んだ腕を離せない。
離そうとしても、心が離す事を許可してくれない。
そんな俺を見かねてか、彼女が優しく微笑み掛ける。
「もぉ、しょうがないなぁ。」
語り掛けながら、彼女は俺の頭部を包む様にして胸へとうずめた。
そのぬくもりが、これから迫りくるであろう寂しさを、心細さを、どうしようもなく増長させる。
気付けば、声を殺しながら静かに涙を流す俺がいた。
「泣かないで…一郎君。大丈夫だから。大丈夫だからね。」
強くならなければならない。
分かっている。
(分かっているんだっ、そんな事はっ!)
なのに涙が止まらない。
止まってくれない。
どれだけの時間が経っただろうか、胸から静かに顔を離した。
「うん。もう大丈夫かな?甘えん坊だからな~一郎君は。」
その笑顔は、まるで静かな夜、天から降り注ぐ月光の様。
その笑顔を見るだけで心は癒された。
その温もりに包まれるだけで全てが癒された。
「応援してるから、ずっと…ずっと…。」
頬を撫でながら、静かに語り掛けてくる。
「だから、夢を追い続けて。もっともっと…凄い選手になってね。」
ただ頷く。
また耐え切れず頬を伝った涙をハンカチで拭ってもらいながら、彼女の姿を網膜に焼き付けていた。
アナウンスが鳴っている。
別れの時が迫っている。
掴んでいたその腕を離した。
「……さよならだよ、一郎君。楽しかった、本当に。一生の宝物……」
この先、二人の道が交わる事は無いだろう。
改札を抜ける彼女の後姿を呆然と眺める。
景色が滲んで歪む。
強くならなければならない。
支えられるのではなく、支える人間に。
(このままじゃ駄目だっ!何も変わってないっ!)
遠くなっていくその背中に届けと、俺は最後の言葉を響かせる。
「葵さんっ!…………ありがとうっ!!」
彼女は振り返り、何かを堪える様にクシャッと顔を歪ませた後、一面に咲き誇らんばかりの眩い笑顔を見せてくれた。
車に戻ると、どうしようもない虚無感が押し寄せる。
零れそうになる涙を、歯を食い縛って耐え、もう一度誓う。
「強く…なるっ。」
彼女に支えてもらった。
沢山のものを与えてくれた。
弱いままの自分では、その全てが無駄になってしまう。
「…づよぐなるっ。」
もう一度刻み込むように呟く。
そして前を向くと車を走らせ、日常へと戻っていった。
翌日ジムへ行くと、五人もの練習生が会長の指導を受けていた。
年齢は様々で、下は中学生、上は二十代半ばといった所か。
「「「「「ちゃ~~っす!!」」」」」
今までにはなかった人口密度に気圧されながらも、挨拶を返す。
「おう坊主、どうだ?お前に憧れて入って来たんだとよ?」
牛山さんが揶揄い口調で、顔を緩ませ問い掛けてくる。
正直こそばゆいものを感じるが、これからはそういう者も増えるだろう。
引っ張って行くべき俺が、いつまでも恥ずかしがっていては示しがつかない。
「そうですね。ならばその憧れであり続けられるよう頑張るだけです。」
予想していない答えだったのか、牛山さんは目を白黒させていた。
「良い事だよ。統一郎君にそういう自覚を持ってもらえると、こっちもやりやすい。」
会長は練習生を見ながらも、こちらの話に耳を傾けていたようだ。
その彼らの視線を浴びながら、バンテージを巻き、体を解す。
「さあ、始めようか。統一郎君。」
「はいっ、お願いします!」
目指す場所はまだまだ遠い。
それでも諦めなければ、きっとその場所にたどり着けるはずだ。
ならば、たとえ道半ばで倒れる事があっても、何度でも立ち上がろう。
それが、彼女の願いでもあるのだから。
目を瞑れば、彼女の暖かな笑顔が心をじんわりと照らしてくれていた。
たったそれだけの事で、俺はきっと、もっと強くなれる。
そんな確信があった。
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