第三十六話 その時を思い

帰路に着いた次の日、約束通り電車で葵さんの部屋へと向かった。


念の為サングラスを掛け心ばかしの変装をしているのだが、途中で馬鹿らしくなって止めた。


そんなこそこそして会わなくてはならない間柄ではないのだから。


泉岡駅に着くと、彼女がニコニコと笑顔を浮かべ迎えてくれる。


「良かった。本当に元気なんだね。」


彼女にしては珍しくロングスカートの装い。


「全然平気。運が良かったってのもあるけどね。」


部屋に着くまで腕を組もうとしたが、彼女が止めておこうというのでその意を汲む。


そんな些細な事でも、彼女がもう少しで遠くへ行ってしまう事を連想した。


部屋に入ると、いくつかの段ポールが重なっている。


自分もその引っ越し準備を手伝ったのだが、その最中も際限なく心が沈んだ。


「ご飯は?ここで食べる?それとも食べに行く?」


少し思案した後、


「葵さんが作ったものが食べたいかな。あれがいい。豚の生姜焼き。」


以前食べたあの味を思い出し告げると、既に材料を用意してあったようだ。


「もしかしたらってね、もう仕込んでおいたんだ。じゃあ、パパッと作っちゃうね。」


エプロンの紐を結びながら、彼女は慣れた手つきで調理に掛かる。


悪戯心が沸き上がるが、今日はただその後ろ姿を眺めるにとどめた。


これから俺の知らない彼女は、どんな風に生きていくんだろうかと考えながら。


「珍しいね、悪戯してこないなんて。もしかして飽きちゃった?…嘘、嘘、怒らないで。」


心外であるという事を表情で伝えるが、いつもお尻を撫でまわしたり、後ろから抱き着いて胸をまさぐったりしているので、どうにも説得力が無い。


「はい、出来たよ。」


そう言いながら、完成した料理を次々とテーブルの上に並べていく。


彼女はあと数日もすれば短大の卒業式を迎える。


そして、地元への帰路に着くことになるだろう。


そう思えば思うほど、今という時が眩く輝いて見えた。


「どうしたの?冷めちゃうよ。温かいうちに召し上がれ。」


彼女は慈愛に満ちた微笑を浮かべ、皿を少し前に差し出した。


俺は箸を伸ばし、噛みしめこの味を記憶に刻み付ける。


食事が終わると、せめて後片付けくらいは手伝うと告げ、俺が皿を洗い彼女がテーブルを拭く分担作業。


その間どちらも口を開く事は無く、黙々と作業をこなす。


早く互いの熱を感じたかった。


「洗い物終わったよ。そっちは?」


丁度いいタイミングで互いが作業を終え、どちらからともなく唇を啄む。


「あ、歯磨きしてこなきゃ。ちょっとまっ…んぅ~~っ。」


我に返ったようにどうでもいい事を言うので、指を下着の中に滑り込ませた。


女性の部分はすでに熱を持っており、粘性の高い液体が指に絡みつく。


「…ぁ……一郎君、お布団行こうね…。立ったままだと疲れちゃうよ…。」


要望に応え彼女を抱き抱えると、そっとベッドに寝かせ覆い被さった。


「ふふっ、ケダモノだね一郎君、服脱ごっか?あはは……自分で脱がせたいの?」


脱ごうとしていたその手を優しく払い、もう慣れた手つきで一枚一枚剥ぎ取っていく。


こうしていると、俺の男としての経験の殆どが彼女によって形成されているのだと実感させられる。


何度目にしても美しいと言わざるを得ないその体。


情欲を刺激するような女の匂い。


そして全てを包み込む熱と柔らかな快楽。


俺が本当の意味で知っている女性は彼女だけだ。


その彼女は自分の道を歩もうとしている。


俺に譲れないものがある様に、彼女にとっても譲れないものがあるのだ。


ならば俺に出来る事はなんだろうか。


(別れを汚さない事。そう、見送るんだ。せめて笑顔で。)


強くならなければならない。


誰かに寄り添ってもらわなければ立てない男など、卒業しなければならない。


愛しい人の全身を、味わい尽くす様に舌を使って愛撫していく。


「…ねぇ、一郎君。そろそろ……え?そのまま入れたいの?」


最後になるかもしれないなら、彼女の熱を直に感じたかった。


「……中に出しちゃ駄目だよ?」

























「ふふっ、一杯したね。約束もしっかり守って。偉い偉い。」


避妊具を使用しない避妊はあまり意味がないと何かで読んだ事があるが、どうしても欲望に勝てなかった。


それに、もし出来てしまったならずっと傍にいてくれるのではないかと、心の片隅で思ってしまっているのも事実。


さっき強くなると誓ったばかりだというのに、己の弱さには辟易とする。


「卒業式っていつだっけ?」


「十日だよ。」


「いつあっちに帰るの?」


「十二日の新幹線、チケット取ってあるから。」


「そっか……。卒業式俺も行っていい?」


「ふふっ、だ~~め。」


「なんで?」


「どうしても。」


寂しい気持ちを隠しながら、きわめて明るい口調でやり取りを重ねる。


「じゃあ駅まで送るのは良いよね。駄目って言っても迎えに来るから。」


彼女は返答を返す事無く、ただ優しい笑みを浮かべながら俺の頭を撫でていた。


「あっ、約束のサイン、今しようか。」


このままでは忘れてしまいそうだったので、許可をもらってから油性のマジックで普通に自分の名前を書く。


「あははっ、普通だ。すっごい普通っ!」


自分でもこれがサインかと問われたら疑問符が付く所だ。


「でもありがと。一生大事にするから。」


それでも喜んでもらえたので、まあ良かったという事にしておこう。

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