第三十三話 例え壊れても
(また体が重く感じるな…。いや、これはさっきより酷いか…。)
先ほどまでは微塵も感じなかった会場のざわめきも、今は聞こえる。
(駄目だな。また切り捨てて行かないと…。大丈夫…感覚は覚えてるんだ。)
相手のリードブローを捌こうと試みるが、やはりこの状態では分が悪い。
顔面の中心を捉えられ、鮮血が飛び散った。
(…ああ、これだ。この感覚だ…。)
がら空きになった頭部目掛け、フィニッシュブローにするつもりであろう、右ストレートが飛んでくる。
視線だけでそれを捉えると、左アッパーを右腕目掛け垂直に突き上げた。
丁度腕が伸び切った所で当たり、こちらの頭部を捉える前にそれは上空へと弾かれる。
一度は途切れた感覚だが、どうやらもう一度取り戻す事が出来たらしい。
(何だこれ…。頭が痛い?…いや…熱いのか?)
正確に言うなれば、頭ではなく脳であった。
例えるなら、電子機器がオーバーヒートを起こした状態に似ているだろうか。
それが肉体における警告である事は理解していたが、ここに至り構う事は出来ない。
(このままじゃ死ぬ…かな?…ははっ…だとしても…もう止まらないし…止まれない……。)
相手の後の先を取り、真っ直ぐ左を伸ばす。
綺麗に捉えた。
灰色の世界で、王者の驚愕と怒りの表情が見える。
返しの右を放ち、躱された所を狙いさらに左。
あのプライドの高そうな男が堪らずバックステップで距離を取った。
だが逃がさない。
下がった分だけ距離を詰め、左、右、左、左、右、左、右。
世界はゆったりと流れていた。
相変わらず、いや、さっきよりも更に脳が熱い。
本当は分かっていた。
何の代償もない力などないという事を。
これは言ってみれば、最後の炎を一生懸命燃やしているだけに過ぎないのだろう。
この先に待つのは、もしかしたら絶望だけかもしれない。
それでも、
(それでも…俺はこの男に勝ちたいんだっ!!)
世界チャンピオンになりたかった。
諦めたわけではない。
だが恐らく、この試合で自分は限界を超えてしまうだろう。
壊れて…しまうかもしれない。
『自慢させてくれよ。』
そう言ってくれたのは誰だったか。
『絶対に無茶だけはしないで』
そう伝えてくれた人もいた。
『大丈夫!一郎君は大丈夫!』
勝利を約束したはずのあの子は、泣いてしまうだろうか。
地元で応援してくれているあの三人組や、この会場まで応援に来てくれている後援会の人達。
俺の唯一の親友と言っていい奴ら。
そして、いつまでも追いかける偉大な背中。
自分が深く関わってきた人たちとの思い出が、何故か浮かんでは消えていく。
天賦を越えるためには命を懸けるのでは足りない。
命を捨てる覚悟がいるのだ。
(会長…牛山さん…及川さん…俺は………)
相手の左を首でいなし、こちらも左を突く。
頬を掠めた。
止まらず更に右、相手はダッキングで躱し左をボディ目掛け真っ直ぐ突いてくる。
構わないと、そのまま被弾覚悟で低い標的目掛け左を打ち下ろした。
相打ち。
始めてこの男の腰がガクリと沈み込んだのを確認した。
一方こちらは最早痛みなど感じない体だ。
怯むことなく返す刀で右フックを叩きつける。
相手はロープに体を預けるような体勢になりながら躱し、その反動を使いサイドステップ。
距離を取られてしまった。
この男は本物の化け物だ。
これだけの代償を払い、ようやく互角といった所なのだから。
時間の感覚も曖昧だ。
このラウンド、後どのくらいの時間が残っているのだろうか。
(まあ…どれだけ残ってても…関係ないけどね……。)
ここで燃え尽きてもいい。
本当にそう思っている。
(今の俺なら…当てられる……。)
ロープに背を預ける御子柴を見据えじりじりと距離を詰めていく。
そして遂には、コーナーを背負う所まで追い詰めた。
狙うのは、勝負を決める一発。
(………ワンツーの右。それを叩いて左の…。)
爪先が相手の射程に入った。
左が伸びてくる。
相変わらず鋭いが、今の俺なら捌けないほどではない。
叩き落とし、弾き、躱し、その時を待つ。
が、いつまで待ってもその時は訪れない。
(……何故?何故…打ってこない?)
そして気付く。
御子柴の右腕がだらりと垂れ下がっている事に。
(まさか…折れてるっ…のか!?)
視界に入っていなかった。
頭が回っていなかったのは当然だが、こんな事まで見落としているとはとんだ間抜けである。
恐らく自陣からは、これを気付かせる為の檄が再三飛んでいた事であろう。
そしてその事実を認識した瞬間、突然に本来の感覚が戻ってきてしまった。
「…っ!!?」
体が鉛のように重く感じ、体は到る所から悲鳴を上げている。
肺がつぶれそうなほど苦しく、寒いのか熱いのか、それすらも分からないほど感覚はめちゃくちゃ。
特に頭の痛みが酷く、気を抜くと意識を持っていかれそうだ。
(何で…?集中が途切れたから…か?)
会場には、王者の痛ましい姿を目にしたファンからの悲鳴が、会場を震わせんばかりに響き渡っていた。
だが、例え片翼がもがれようとも足は健在で左も切れる。
ではこちらはどうかと言われれば、意識が朦朧とし、押されれば倒れてもおかしくないほどのダメージを抱えている。
当然次のラウンドに回せる力は残されておらず、ここで勝負を付けなければ、もはや勝機が無い事は明白だろう。
つまり、このコーナーから逃げられればお終いという事だ。
(脱出は……右側から…だな。)
事前に退路を塞ぐように右寄りに位置を取り、いざ勝負の時。
(…左…コークスクリュー。大丈夫…きっと………当たる。)
御子柴の右はもう完全に使えない状態。
ならば左のパンチは素通しだ。
後は、当たる体勢を作るのみ。
「シッ!シッ!………シッ!シッ!シッ!…はぁっ…はっ…はぁっ………」
この状態でも連射が利く唯一のパンチであるジャブを放つ。
王者はそれを、左腕と体捌きのみで全て凌いていた。
正直、ただ立っているだけでもきつい。
このままではゴングを待たずして、倒れてしまうだろう。
「…シィッ!」
渾身の右ストレート一閃。
これはダッキングさせるのが目的だ。
御子柴にも余裕は無く、思い通り低い体勢を取らせる事に成功する。
(…………今っ!!)
俺の右を潜る様に低く構えた標的に向かい、最後の力を解き放つ。
それは、俺の全てを込めた左コークスクリュー。
(…頼むっ!!………当たれぇっ!!!!)
王者はショルダーブロックを試みるが、完全には勢いを殺しきれない。
そして軌道が逸れ、僅かに側頭部を掠めるにとどまった。
だが、それでも一瞬グラッと体勢が崩れるのを見て取り、
「ぁ…ぁ……はぁっ…はぁっ…はぁっ……シィッ!!!」
前のめりに倒れそうになった体を意地で支え、再度、左コークスクリュー。
ゾクリとした。
王者の視線が俺を射抜く。
眼前からは完全な鏡合わせの構えで左を伸ばしてくる王者の姿。
つまり、御子柴が放ったのも左のコークスクリューブロー。
「……っ!?」
タイミング的には完全に相打ちになると思われた。
しかし、結果的にはどちらのパンチも届く事は無かった。
「…ストップっ!…ストップだっ!!」
横から覆い被さる様にしてレフェリーが割って入る。
(…ゴング鳴ってた……のかよ?…く…そっ……)
頭が痛み景色は歪み、足ががくがくと揺れ立っていられない。
肺も焼け付きそうだ。
自らの敗北を覚悟し振り返ると、ひらひらと一枚のタオルが舞っていた。
(えっ…?どっ…ちの……だ?)
状況が分からずただ呆然とする俺と王者に、両陣営が駆け寄る。
しかし結果を知るまで意識を繋ぎ止めること能わず、俺の意識はまるで底なし沼を思わせる様な真っ暗な世界に沈み込んでいった。
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