第三十二話 諦めない男

「良く帰ってきたよっ。ボクシングに絶対なんてないっ。粘っていれば必ず勝機は見えてくるからねっ。」


天を仰ぐ様に顎を上げ、大きく呼吸を繰り返しながら、その言葉に耳を傾ける。


細かい指示をした所でそれを全う出来るとは思っていないのだろう。


会長には珍しく、精神論に近い言葉を繰り返していた。


「…会長、次…何ラウンドでしたっけ?」


意識が朦朧としてきている為か、ラウンド数を把握出来ていなかった。


「…次が第七ラウンドだよ。」


語りながら、外側の二人と目配せしているのが分かった。


どうやら俺の限界が近いと思わせてしまったらしい。


タオルを投げ込むタイミングを計っているのだ。


「俺…はぁっ…はぁっ、まだまだいけますから…タオルは早いですよ?」


強がりと共にニヤリと笑みを見せる。


「そうかい。…うん、分かったよ。」


朦朧とする意識の中、氷が足りないと言っている声が微かに聞こえる。


言っているのは牛山さんだろうか。


どうやら、予備の氷を佐藤さんか明君が持ってきてくれたらしい。


まさに弱小ジム総動員といった感じだ。


「統一郎君、必ず……」


会長が何かを言っていたが、歓声とセコンドアウトのブザーで掻き消され渋々下がっていく。


俺は強い、そう言い聞かせながら限界を感じる足に力を込め立ち上がった。


すぅ~っと、鼻に空気を通す事を意識し呼吸を繰り返す。


(鼻血は止まってるな。足は…鉛の様だ。…頭もグラつくか。)


ピンチの中でこそ自分の状態を把握する事は重要だ。


その中で出来る最善を選んでいかなくてはならないのだから。


よく通る金属の甲高い音を聞き、足先を引き摺りながら前に出る。


(この状態で細かいパンチを積み重ねる、なんてのはもう無理だな。)


相手はリング中央に陣取って、こちらが辿り着くのを待っている様だ。


(だとすれば、やはり無理だろうが何だろうが、コークスクリューを当てなきゃ勝てないな…。)


一発で引っ繰り返せるパンチがあるというのは、こういう状況では精神安定剤にも似た役割を担う。


会長に感謝だ。


相手の射程まであと数十cm。


そして今まさにその境界線を跨ごうとしていた。


「…っ!!」


爪先が僅かに一線を越えた瞬間、鋭い左が俺の肉を削ぐ。


それでも鋭い痛みに耐えながらこの距離での勝負を避け、懐に潜り込むチャンスを伺っていた。


(…右に…合わせて…踏み込むか?それとも……強引に…強打で突っ切るか?)

「…っ!!……くぅっ!!」


考えが纏まらない、いや、纏める隙を与えてくれない。


しかも先のラウンドの一発で警戒させてしまったのか、少しずつ本来のスタイル、足を使ったボクシングを展開してきていた。


下がりながら、回り込みながら、弱った獲物を啄む様に鋭い連撃が襲う。


誰から見ても勝敗は明らかであろう。


(…だからどうしたっ!…諦めないっ!諦められないっ!!)


タイトルが欲しい、期待に応えたい、だがそれ以上に。


(この男に勝ちたい!この凄い男に!最強のボクサーにっ!!)


徐々に徐々に、体は疲労を感じなくなってきていた。


(俺は世界を知らない…。)


これほどまでこの男に勝ちたいと思う理由に、俺は確信と言ってもいい心当たりがあった。


(だがそれでも…この男以上のボクサーは…恐らく…いない!)


幼き自分は世界チャンピオンを夢に見た。


だが今目の前にいる男は、自分がモニター越しに見たどんなチャンピオンよりも大きく見える。


(ならば、この男に勝つことが出来れば、俺は…きっと……)


伸ばした左を払われ、強烈な右が衝撃と共に鮮血を飛び散らせる。


体から意識だけが解離していくのを感じた。



















「…………スリー!、フォー!、ファイブ!…」


第七ラウンドが始まってからどれほど経っただろう。


気付けば俺はダウンしていた。


だが幽鬼の如く立ち上がりファイティングポーズを見せ、レフェリーの判断を待たずに前に進み出る。


「止まりなさいっ!…目を見せてっ!………ボックスっ!!」


目に映っているのは只一人だけ。


倒すべき相手、自分が目指した場所を越えている男。


徐々に徐々に、痛みも疲労も感じなくなっていく。


鋭い左が飛んできた。


回避を試みるが、敢え無く被弾。


何の痛痒も感じない。


これはいいと、間髪入れずにこちらも左を返す。


頬を掠めるに留まったが、表情から余裕が消えたのを見て取った。


(…こいつに…勝ちたい……)


その為に余分なものは切り捨てる必要があるだろう。


「はぁ~~っ……はぁ~~っ……………」


音が消えた。


左が飛んでくる。


ヘッドスリップで額を掠める様に逸らし、その内側へ左を伸ばす。


手応えはよく分からない。


だが、当たった。


手応えが分からなくとも、この目が捉えている。


色も消えた。


問題はない。


全て今は必要ないものだから。


飛んでくる右を叩き落とす。


こちらもお返しに右を伸ばすが、首をひねって躱された。


ならばと、体勢整わぬうちに更に左を伸ばす。


当たった。


色が分からないから何とも言えないが、流れているのは恐らく血だ。


レフェリーが割って入ってきた。


邪魔だ。


実に邪魔だ。


無理矢理にでも除けようとすると、今度は後ろから羽交い絞めにされた。


どうやらインターバルに入っていたらしい。













椅子には座らない。


座ったら、今の全てが壊れてしまう気がするから。


しかし、殆ど無理やりに座らせられてしまった。


するとやはりというべきか、少しずつ音が、色が戻ってくる。


(ああ駄目だ…これでは戦力差が埋められない…。でも…感覚は分かってきた。これなら、切っ掛けさえあればまた……)


様々な感覚が戻ってきて感じる、激しく頭が痛いと。


ズキンズキンと中心から何かで叩かれている様な痛みだ。


熱も出ているようで、意識がはっきりしない。


会長が何かを言っているが、取り敢えず分かっている風を装っておく。


それはそうと、取り敢えず言っておかなくてはならない事があった。


「タオルは駄目ですよ……会長………」


漸く勝負になるかもしれない所まで来たのだ。


ここで止められてしまったら、一生悔やんでも悔やみきれない。


(そろそろ始まるな……)


三分と一分の繰り返し。


嫌になるほど体が覚えている。


そしてこちらが立ち上がると同時に向こうも立ち上がり、第八ラウンドの始まりを告げた。

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