第三十一話 第六ラウンド
「何をもらったか覚えてるかい?」
会長に問われ、首をただ横に振る。
「オーバーハンドの左だよ。視界の外から来る大きいやつね。」
状況を説明された後、そこまでが相手の狙っていた一連の流れなのだと理解した。
だが何故だろうか。
これほどまでの力の差を見せつけられても、諦めようという気持ちは微塵も沸いてこない。
「うん。本当に強くなったね。」
腫れ上がった瞼の様子を見終わった会長が、柔らかな笑みで語る。
「腫れては来てるけど、まだ視界を塞ぐほどじゃない。でもこの先も狙ってくるだろうから、左のガード下げないようにね。」
戦略的なアドバイスはなかった。
いや、もう指示は受けているのかもしれない。
俺の全てを出し切ってこいと、その目が伝えているのだから。
頭から冷たい水をかけてもらい、ひんやりとした感触に疲労が少し溶けていく。
それでも、椅子から立ち上がると多少のふらつきを隠せないほどのダメージが蓄積していた。
だが意識ははっきりしており、まだまだ気力が沸いてくる。
(よしっ!行くかっ!)
ゴングを聞いた直後、相手コーナーに向かって猛然と突き進んだ。
(この男は自分から絶対にクリンチしないっ。なら、それを利用してやる。どろどろの打ち合いに引き摺り込むんだっ!!)
相手は自陣を少し出た辺りで重心を下げた構え、どうやら迎え撃つつもりらしい。
左肩をぶつけるかの勢いで踏み込むと、まずは挨拶代わりの右アッパー。
「…シュッ!」
相手はそれを横から叩き軌道を変え、軽々と捌く。
(休むな!この距離だっ、全てを捌ける人間などいないっ!)
左フック、右ショートストレート、左アッパー、そして右フック。
(くそっ…こいつやっぱ凄えっ。全部受け流してやがるっ。)
どちらかといえば、今この男が使っている技術はボクシングではなく武術等を思わせるものだ。
何故ならば、円を描く動きで受け流すと同時に、こちらの重心まで左に右に崩そうとしてくるのだから、こんな技術は通常のボクシングにはない。
恐らくその気になれば、受けると同時に腕をへし折ったりも出来るのではないだろうか。
正直、心の中では感嘆の声を上げてしまっていた。
そのあまりにも差がありすぎる技量に、何の動揺もなくそれを行う精神力に。
どんなボクサーでも、相手が捨て身のラッシュを仕掛けて来れば、表面には出なくともそれなりに心の中の平穏は崩されるはず。
だというのにこの男と来たら、それすらも見受けられない。
(…上が駄目なら下っ!!)
上下の打ち分けを忘れるなという会長の言葉を思い出し放ったのは、散々向こうからやられた左ボディ。
狙うのは肝臓。
こちらが受けた痛みをそのまま返してやるつもりだった。
しかし考えるべきだったのではないだろうか。
何故この男がこんなにもおとなしく受けに回っているのかを。
最初は赤コーナーの真ん前で打ち合っていた両者だったが、少しずつロープ際を移動していく。
そして相手が背中をロープにこする形で移動しようとした瞬間、俺は好機と見て強打を放とうとした。
「……っ!?」
だがこちらに手応えはなく、先に届いたのは相手の鋭く速いコンパクトな右アッパー。
それがピンポイントで俺の顎先を揺らした。
俺が左ボディのモーションに入る瞬間を狙い、全てを見透かした様に叩かれてしまったのだ。
体の芯が揺らぐ。
それでも、ここで引けば今以上に相手の思う壺だろう。
(覚悟を決めろ!ここで打ち合うっ!ここで打ち合うんだっ!!)
王者のプライドか、相手はこちらの全てを受け止めてからねじ伏せる構え。
この状況で本気のアウトボクシングをされれば、最早勝負にならないはずだ。
それをしてこないのは奢りか、それとも誇りか。
意地でも前者にしてやろうと、死に物狂いで叩き続ける。
「シュッ!…シィッ!シッ!」
ガードだけは下げない事を意識しながら、神経を限界まで張りつめていた。
俺が狙っているのはアッパーへのカウンター。
(右でも左でもいいっ。アッパーが来たらフックを被せてやる!)
必死なこちらに対し、相手の顔は涼しいまま。
「…っ!!」
しかもそんな心の声まで看破されているかの如く、放ってくるのはショートストレートばかり。
その打ち方も今までとは違う。
(何だこの打ち方っ!?いや…知ってる。確か拳法の…何だっけ?…直突きって言ったか。)
構えた体勢のまま、力みなく真っ直ぐに打ち出されるその拳は、元来の速さも相まって恐ろしく避けにくい。
右に左に頭を振ろうが否応なく追尾され叩かれ続け、遂には鼻血がだらだらと流れ止まらず、空気の通り道まで塞ぎ始めた。
そして俺はあまりの苦しさから、口を開けて呼吸するようになっていった。
「…ぐっ!!……ぅっ!!」
鼻の気管が血で塞がったのを見てか、今度はボディを多用してくる。
(…何て…冷静な奴だ。本当に……嫌な奴。)
下をもらってしまうのは、これ以上瞼が腫れないようガードを上げている事も関係しているだろう。
(この野郎…。詰将棋でもやってる気かよ…。だが、残念だけど…これは……ボクシングだっ!!)
一つ一つこちらの道を潰していくやり方に、反逆心が沸き上がる。
それだけ力の差があるという証明でもあるのだが、どんなに見せつけられようと勝負だけは捨てない。
カウンターに神経を尖らせながら、決して大振りだけはしていないのだ。
「シッ!シッ!シッ!…シッ!シィッ!…フッ!」
(負けない!負けない!…負けねえっ!…勝つんだっ!!)
チアノーゼの症状が現れ、霞が掛かったように頭が働かなくなっていく。
肺が熱い。
息が苦しい。
足が重い。
景色が歪み、頭も痛い。
それでも血に塗れた顔を相手の胸部に押し当てながら、体が覚えたパンチをひたすら放つ。
その瞬間だった。
「シィッ…!?」
何かを捉えた感触が右の肩までズシンと伝わってきた。
(あ、当たった…のか?)
突然の事に一瞬手を止め息を吸い込み、視線を上げる。
「…はぁっはぁっ…はっ……はぁっ……。」
すると目の前にあるあの端正な顔の中心、つまり鼻からは僅かに血が滴っていた。
(当たった?…何で?…そうだっ!この世に完璧な奴なんかいないっ!当たるんだっ!!)
相手はグイっとグローブで血を拭うと目を細め、視線鋭くこちらを射抜く。
激情に駆られ一気に来るかと思われたが、どうやら電光掲示板に視線を向けている様だ。
そして同時にゴングが鳴り、相手はダメージがない事を見せつける為か、軽やかな足取りで自陣へと戻っていった。
「…はぁっはぁっはぁっ…はっ…はぁっはぁっ…はぁっ…はぁっ……」
軽やかな相手とは対照的に、こちらの顔色は悪く呼吸も荒い。
だが、それがどうしたと言うんだ?
そんな現実は些細な事だ。
絶対に勝つと決めたんだ。
あの子と約束したんだ。
だから、今の俺には苦しさなど何の障害にもなり得はしない。
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