第三十話 第五ラウンド
「はっ…はぁっ……はっ…はっ……」
まだ四ラウンドしか戦っていないというのに、疲労は終盤を思わせる。
先のラウンドの攻めは少々無理をし過ぎたきらいがあり、その反動が来ているのだ。
(強い…。本当に強い。だが…それでも、俺は…。)
試合はようやく中盤に差し掛かろうとしている。
牛山さんが冷たい水を含ませたタオルで汗を拭き、及川さんが腫れ止めの金具を当てながら、首筋をマッサージ。
会長は深刻になりつつある足のダメージを心配してか、入念に足を解してくれていた。
「統一郎君、もし…」
これ以上は無理だと感じたら、そう言おうとしたのだろうか。
その先を語らせず、俺は遮るように口を開いた。
「会長…はぁっ…はぁっ…俺は諦めませんよ。この先どんな状況になっても…はぁっ…はぁっ…絶対っ!」
選手を無事にリングから降ろすのがセコンドの役目なら、俺の役目は勝つ事だ。
「…俺を信じてほしいんです…最後まで…。はっ…はぁっ…お願いしますっ。」
例え俺がそう言ったとしても、限界だと判断すれば会長はタオルを投げ込むだろう。
それでも言わざるを得なかった。
夢を見せたいんだ。
自分を応援してくれる人達に。
友人に。
家族に。
そして俺の勝利を願ってくれている彼女達にも。
「分かったよ。今の君が持てる全ての力を出しておいで。」
会長のマッサージによって、再三のボディブローで滞った血の巡りが幾分か良くなった気がする。
勿論、ボディのダメージが簡単に回復する事など無い為、気がするだけだろうが。
ブザーが鳴り響くのを聞きながら立ち上がる。
軽快とは言えないが、まだ完全に足が止まる段階ではなさそうだ。
しかし腹部と頭部には痛みが残り続けている。
(…三半規管は戻ったか。大丈夫…。まだまだいけるさ。)
第五ラウンドのゴングが鳴った。
幾分か腫れてきた瞼を開き対角線上に視線を送ると、相変わらず堂々たるもので、こちらへゆっくりと歩み寄ってきている。
どうやら先のラウンドのダメージは無いとみて間違いなさそうだ。
そして先ほどの意趣返しか、リング中央で悠々と見せつける様に構える。
「…シッ!」
それを姿を見て、俺は珍しく踏み込んだ左を突いた。
劣勢だろうが何だろうが、挑戦者はこちら。
手を出さなければ始まらない。
「シッ!…シィッ!」
相手が返してこないのを見て、すかさずワンツーを放っていく。
すると最早完全に見切っていると言わんばかりに全てを華麗に捌かれ、返しに警戒を高める。
こちらの立ち位置は中間距離を保ち、先のラウンドを踏襲する一発に狙いを定めていた。
(普通に打っても当たる訳が無い。ならば、ボディブローに被せる。それしかない。)
避ける体制が整っていなければ、いかなこの男とて簡単には捌けまい。
まずはその状況を作る為、相手を中心にして回りながら探る様に左を伸ばしていく。
「シッ!…っ!!…シッ!シッ!……チィッ!!」
相手は器用に小刻みなステップを刻みながら、俺を正面に据える。
しかも気のせいではないだろう、放つパンチの切れが増している様だ。
積極的にコンビネーションも織り交ぜてきている事から、そろそろ終局に向けての準備に掛かったという所だろうか。
だがそれでも手を休める訳には行かず、体の到る所に痛みを感じながらも、鋭く意識を研ぎ澄ませ放っていく。
(ボディだ。見逃すな。ボディが来たら………何を打つ?)
何を打てば当たるのか、そのイメージが湧かない。
そんな事を考えている隙に、相手は左のコンビネーションから右を伸ばして来ようという体勢。
そして左二発からの右が今まさに放たれようとした瞬間、こちらの視線を見据えた奥にある思惑が、その時だけは何故か見通せた気がした。
(…上じゃないっ!?下だっ!)
最早何を放つか考えている暇はない。
タイミング的に回避は不可能。
そうなれば必然的に選択肢は迎え撃つしかないだろう。
両者の拳が交差して、肌を打つ乾いた音が会場にこだまする。
「ぐっ…。」
相手のボディストレートが綺麗に突き刺さったが、今回ばかりはこちらも同じ事。
反射的に放たれた左ストレートが、相手の頬を叩き痣を作った。
(踏み込みが足りなかった。くそっ、跳ね返るダメージを恐れたか…。)
だが、誰の目から見ても分かるほどにその顔には傷跡が刻まれており、それを見た女性ファンから心配そうな声も挙がっている。
(結果的にはどうなんだろうな…この相打ち。ダメージはこちらの方がきついか?)
腹部に残り続ける鈍痛が損傷の深さを実感させる。
そして眼前にいるその者からは、殺意にも似た何かが沸き上がっているのを感じた。
プライドを傷つけられたと思ったのだろう。
視線だけで痛みを覚えそうなほどの鋭い意志を感じる。
(怯むなっ。タイミングさえ間違えなければ当たる事が分かったんだ!)
自分を奮い立たせ踏み込んでワンツーを放っていく。
「シッ!……っ!?」
しかし、放てたのは初撃の左のみ。
打ち終わりと打ち始めの刹那、尋常じゃない速さで何かが割り込んできた。
(左!?左だっ!!何て鋭さだ…。これが本気ってわけかよ…。)
その視線の鋭さは更に増していき、俺は警戒心を高めガードを上げる。
その瞬間、弾幕の様な左が眼前を覆った。
「くっ!!…っ!!」
肉が削られるようだ。
体中にミミズ腫れが浮き上がる。
蛇が絡みついて離れてくれない。
またも有り得ない方向に関節が曲がっていると幻視する。
初回のそれとは訳が違う、僅かな反撃すらも許さない毒蛇の猛攻。
(こいつっ、この連打の中、右目を狙ってんのかっ!?)
徐々にではあるが、右の瞼が膨らんで視界を圧迫し始めている。
素人が見ればがむしゃらに打っていると見えかねないが、それらは全て緻密に計算されつくしていた。
ガードを僅かでも空ければ右も飛んでくるだろう。
かと言ってこのまま凌いでいれば状況は更に悪くなる一方。
(くっ、どうするっ…どうすればいいっ!?)
考えても答えは出ないまま、僅かな糸口を求め必死で凌ぎ続ける。
(右を誘うっ!…そこからボディストレートっ!!)
わざとらしさが出ないよう気を付けながら、ガードに隙間を作った。
(他の選手ならともかく、この男が隙を見逃す筈が無いっ!)
綺麗なカウンターなど望んではいない。
相打ちで充分だと願いながら、その一撃に狙いを澄ます。
そして、狙い通り相手は右を打ち込む気配を見せた。
(……今っ!!)
相手から右が放たれると同時に意を決して踏み込もうとした瞬間、悪寒が駆け巡り、判断の危険性を全身に伝える。
(フェイントっ!?踏みとどまれ~~っ!!!)
既に前傾姿勢になりかかっていた体を、歯を食いしばって持ち直そうと試みる。
何とか体勢を持ち直し重心を後方へ引くと、その瞬間、空気さえ切り裂かんばかりの鋭い打ち下ろしが鼻先数ミリを掠めた。
全身に冷たい汗が流れる中、拍子木の音が鳴り響く。
(……取り敢えず生き延びた…か?)
呆けていたというのが正確なのだろう。
「………スリー!、フォー!、ファイブ!…」
視線の先では、指を数字に見立て数えるレフェリーの姿。
状況が分からなかった。
俺は何故か、マットに尻餅を着いていたのだ。
ただ一つ確かな事は、俺が今立ち上がらなければ試合が終わってしまうという事だけ。
「大丈夫ですっ!ほらっ、構えてるでしょっ!?」
血走った眼で何とか立ち上がり、ファイティングポーズを取る。
歪んだ景色の端に、歯を食いしばり心配そうな表情で眺める陣営の仲間達が見えた。
「……よし…ボックスっ!」
レフェリーが再開の合図をしたと同時、第五ラウンド終了を告げるゴングが響いた。
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