第二十九話 第四ラウンド
ジャブが得意とはいえ、打った数が半端ではなく、流石に少し息が上がってきた。
「大丈夫、負けてないよ。」
会長は開口一番そう語ったが、恐らく本当にそう思っているわけではなく、そういう気概で臨めという意味だろう。
その手は、先ほど左をもらった右目に腫れ止めの金具を当てている。
「会長…何か…」
「良いよ喋らなくて、呼吸を整えて。分かってるから。」
リズムが狂わされる、そう伝えようとしたのだが、どうやらお見通しだったらしく遮られてしまった。
「相手が打ってくるタイミングがちょっと気持ち悪いって事でしょ?恐らくね、あれは以前に話した呼吸を読むって事に関係してると思う。」
大きなパンチに合わせるなら自分も出来るかもしれないが、それをジャブに合わせろと言われたら、全く出来る自信はない。
「あれは正直対策のしようがない。だから、気にしない方が良いよ。」
そうは言っても…そんな弱気な表情を読み取ったのだろう、会長は続ける。
「次のラウンドはとにかく足を使って回ろう。勿論ジャブを打ちながら。さっきは正面に立って打っていたからね。飛んでくる角度が変われば、彼とてそう簡単には合わせられないはずだよ。」
語る声に重なり、セコンドアウトを告げるブザーが鬱陶しく響いていた。
「あ、後、上下の打ち分け忘れない。」
後ろ髪を引かれるようにして、会長はリング下に降りていく。
洗われて水気の含んだマウスピースを銜えながら、もう二人の心強い仲間に視線を送ると、二人供がニコッと笑い、拳を握って見せた。
自分を落ち着かせる意味も込めて一度天井を見上げ深呼吸をし、対角線上の相手を見やる。
そして第四ラウンドのゴングが響く中進み出ると、軽くその場でリズムを刻み、サイドステップと同時に左を突いた。
「シッ!」
ガードの上だが構わない。
相手はこちらと軸を合わせる様に動きながら隙を伺う。
そこを更に時計回りで二発撃ちこんでいった。
「シッ!シッ!」
当然相手もただ受けているだけではなく、絶え間なくフェイントを繰り返し、こちらに休む暇を与えてくれない。
ほんの僅かでも隙を見せれば、あの高速コンビネーションが飛んでくるだろう。
受け手に回り勝機が無い事はこれまでの展開で散々身に染みているのだ。
そうなればこちらが取る策は先手必勝以外になく、それが会長の言いたかった事だと勝手に解釈した。
「…シッ!フッ!」
相手の左をサイドステップで躱しつつワンツー。
軽く捌かれるが、分かっていた事なので特に気にはしない。
「シッ!…シュッ!」
ジャブから踏み込んでの左ボディストレート。
右の打ち下ろしを警戒しながら、更に上に一発。
スウェーで躱されるが、この試合で始めて少し慌てた表情を見せてくれた。
すると相手は多分に警戒を含んだ空気を纏い、下げていた左拳を顎の所まで上げる。
そのひりつく空気が伝える、ここからが本番だと。
呑まれてはならない、そう思いこちらから手を出そうと思った矢先、相手の機先を制する連撃が飛んでくる。
ジャブ、左アッパー、そして右ストレート。
恐らく得意にしているであろうコンビネーションを放ってくるが、先のラウンドで見せたほどの切れはなく、何故か手加減が伺えた。
(この期に及んで…俺はそこまで…っ!)
一瞬頭に血が上りかけるが、何度も同じミスをするほど愚かではないつもりだ。
だが、完全に冷静さを取り戻すには多少の空白が必要。
そう思い少し距離を取った瞬間、
(…ん!?)
相手の構えが近距離用のクラウチングスタイルに変わり、鋭く踏み込んできた。
こういう戦い方にもある程度慣れがあるので、普通なら対処可能なのだが、この男の踏み込みは本職もかくやというほどの鋭さ。
(真っ直ぐ下がるのは…駄目だっ。ならば横に回り込むか?)
引くという選択肢がまず頭に浮かんだが、
「シィッ!」
それではペースを握られるだけだと思い、低く重心を落とし左ボディフック。
相手も同時にレバーブローを放ってくる。
鈍い痛みが脇腹を刺すが、ここで怯んではもう勝ち目がない。
「フッ!シィッ!…フッ!」
右アッパー、左フック、更に右アッパー。
相手はそれを事前に分かっていたかのような動きで流し、受け止め、捌く。
当然その後は攻守交替。
左フックをガード、返しの左アッパーは首をひねって躱す。
だがその次の一発、レバーブローはまたも綺麗にもらってしまった。
徐々に足が殺されていくのを感じる。
まるで詰め将棋を思わせる追い詰め方。
(参考にはなる…が、今はそれ所じゃないっ!!)
一旦仕切り直しを狙い普段やらない事にしているクリンチを試みるが、そう簡単に行くわけもなく、抱きつく素振りを見せた瞬間に激しい連打を浴びせてくる。
このまま強引に行けば決して無視出来ないほどのダメージを負うだろう。
(今クリンチは駄目だっ。逃げるという意識を捨てろっ!)
「っ!!…くっ!!」
そうこうしている内にズルズルと後退を余儀なくされ、気付けば赤コーナーにほど近い場所のロープを背負う格好。
何度かサイドに回り込もうと試みるのだが、その度に強烈なボディで動きを制してくる。
いちいち参考になる男だ。
(相沢君とは違ったタイプだけど、インファイトもやっぱり強いな…。)
細かい連打の中に強打を混ぜる相沢君とは違い、この男は一撃一撃を痛烈に叩いてくる。
ならば隙も出来るだろうと思いたいのだが返しも早く、しかも全てがもらえば一撃で沈んでもおかしくない切れを持つ為厄介だ。
だが、そうやって恐れていては只打たれるだけなのもまた事実。
(覚悟を決めろ!隙を見極め、渾身の一撃を放つんだっ!)
細かい連打ではこの状況を打開できない。
技量で負けている事は分かっているので、打ち合いに出ても負けるだろう。
ならば当然、賭けるべきは最高のタイミング、そして一撃。
相手が左フックを放った瞬間、一つのターニングポイントになるであろう勝負に出る事にした。
「…シィッ!」
相手の左に右を被せ、所謂クロスカウンターを試みたのだ。
「…っ!??」
だが、その左は軌道途中でピタリと動きを止め、代わりに飛んで来たのは右のショートストレート。
こちらはそのまま振り切る体勢であった為、カウンターで入ってしまった。
しかも、撃ち抜かれたのは狙い澄ました顎の先端。
景色が歪む。
(ダウンしなきゃ…。このままじゃ…。)
しかし背中にはロープ、膝をつこうにも執拗なまでに下から突き上げられてはそれも不可能。
「…っ!!…ぐっ!!……がっ!!……はっ!!」
上をガードすれば下を叩かれ、下をガードすれば上を叩かれる。
口と鼻腔に充満する鉄の匂いが、否応なく劣勢を実感させた。
やはり強い。
初めから知っている。
しかし展開とは裏腹に、自分の中に沸々と湧き上がる何かがあった。
力量の差など初めから折れる理由になりはしない。
元より分不相応な場所を目指しているのだから。
残り時間はどれくらいだろうか。
そんな事を考える余裕は残っていた。
(……下のガードは捨てる…。)
乱戦に巻き込んでやろうという意気込みで腕を十字にクロスさせると、肩から相手の懐に飛び込んだ。
当然がら空きの側頭部を叩かれ更に足が覚束なくなるが、知った事ではない。
そして相手の胸部に頭をこすりつけながら、トルネードフック。
を、放つと見せかける。
察知した相手は軽くバックステップした後、カウンター狙いの右。
(よしっ!嵌った!)
こちらが普通の状態ならばこの男は引っ掛からなかっただろうが、息が乱れに乱れている上、フェイント前からここまでの一時息を止めている。
呼吸を読まれない為とはいえ代償もあり、少し酸欠気味になりながら相手の右に合わせてこちらが放つのは、右のコークスクリュー。
相打ち狙いの大博打だ。
相手の右が浅く頬を掠めるが、こちらの右は構わずガードを吹き飛ばし突き進む。
(…もらったっ!!)
かに思えたが、ぐりんと器用に首だけでいなされ決定打には至らない。
だが完全に躱せた訳では無いらしく、その唇の端には赤い血の一筋が見える。
そして多少のダメージもあったようで、残り僅かの時間、この男にしては珍しくリングを大きく使い距離を取るという戦法に切り替えてきた。
そのままゴングが鳴り、今までは耳に入ってこなかった歓声が鼓膜を震わせる。
その中にはいくつか見知った声も混じっており、自然と笑みが零れると、足を引き摺りながら仲間の待つ自陣へと戻っていった。
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