第二十八話 第三ラウンド

「少し呑まれてるね。勘違いしたら駄目だよ。左は君が上だ。相手の雰囲気にやられているのか、左にいつもの鋭さが乗ってないよ。」


俺が椅子に座るなり、会長はまるで勇気づける様に正面を見据え語る。


「僕が保証する。君の左は世界に通用する最高の左だ。」


真っ直ぐに目を見つめられ、体に一本芯が通った気がした。


そして、全身の筋肉を解す様にマッサージした後、軽くワセリンを塗る。


自分では気付いていなかったが、確かに相手が王者だという事を意識しすぎていたかもしれない。


相手が誰であれ、自分に出来る事など変わる訳ではないというのに。


自嘲気味に笑うと同時、会場にセコンドアウトがコールされた。


「うん。良い顔になった。行っておいで。」


マッサージの成果か、心持ちによるものかは分からないが、体が軽くなった気がした。


こうなって初めて分かる。


先ほどまでは余計な力が入り、肩の可動域がいつもよりも狭かった事を。


どうやら会長の言う通り、本当にあの男に呑まれていたらしい。


第三ラウンドの始まりを告げる金属音を聞きながら前に進み出ると、ゆっくり構えを取り相手を見据えた。


すると相手もゆったり構えを取り、迎え撃とうという気概が見える。


一方こちらは先ほどまでのピンチが嘘に思えるほど、気持ちが落ち着いていた。


そして、今まで積み重ねてきた自分を取り戻すつもりで進み出る。


「…シッ!」


左を突いた。


予想通り、掴む様にして呆気なく捌かれる。


だが気にしない。


「シッ!シッ!シッ!……」


更に突く。


先ほどの展開を狙っているのか、相手の空気が変わった。


「シッ!シッ!シッ!シッ!……」


まだまだ突く。


先ほどまでのがむしゃらに打っていた連打とは違い、相手の動きを見据えての連撃。


叩き落とそうとしたら右を打ち込むつもりだったが、敵もさるもの、こちらの狙いを看破してかバックステップで躱す。


当然先ほどまでは相手の場所だったリング中央ががら空きになる。


そこに我が物顔で陣取った。


相手の目がこちらを観察するように細くなった後、少し口が愉快そうに歪んだ。


(どう来る?また左の差し合い?踏み込んで来る事も考えられるな。)


会長は言った。


左の性能では俺が上だと。


それは裏を返せば、それ以外は向こうに分があるとも言える。


だが、思い返せばそんな事はしょっちゅうだったではないか。


今更、気にする事でもない。


「…っ!!」


そんな事を考えている内に、相手がまたも左の差し合いを挑んできた。


(どんだけ負けず嫌いなんだよっ。全てにおいて上をいかないと気が済まないとか…。)


だが、こちらとしては有り難い展開の為、喜んで迎え撃つ。


「シッ!…シッ!」


二発、三発、四発と、先ほどのラウンドと同じく際どい左が頬を掠める。


「シッ!シィッ!…シッ!」


間に左のストレートを混ぜ、ガード真ん中に風穴を開けると、更に迷わずジャブ。


パシィンっとグローブが肌を打つ良い音がした。


この試合初めてのクリーンヒット。


それだけの事で喜悦が心を満たそうとしたが、何を馬鹿なと神経を研ぎ澄ませる。


キュッとリングシューズの音が響き、相手が僅かに後退した。


(これはチャンスかっ。流れはこっちだ。いける!)


右のグローブで顔を覆う様にしていた隙間から、相手の目が覗く。


ゾクリと背筋に嫌な感覚が走った。


思い返せば、この感覚はいつも自分を助けてきた。


だが、恐れていて何が変わるというのか。


(何かがあるなんてわかり切った事だ。それに、どの道判定じゃ勝てないんだ!)


恐れをねじ伏せて、警戒しながらも距離を詰める。


「…っ!!?」


その瞬間、こちらのガードを一際鋭い二発のパンチが撃ち抜いた。


叩かれたのではなく、撃ち抜かれたのである。


それはまさしく、正道なるワンツーだった。


だが、その衝撃たるやガード越しだというのに後頭部に痛みが走るほどだ。


嫌が応にも痛感させられてしまった。


この男は今まで本当に本気を出してなどいなかったのだと。


そしてこちらの進み出る足を止め、悠々とデトロイトスタイルに構え直した。


「二分!」


ラスト一分を告げる声が響き、またも暗雲が立ち込める。


このままではまたズルズルとペースを握られかねないと、もう一度左の差し合いを挑む。


「シッ!シッ!」


しかし、今度は差し合いには乗ってこず、相手は捌く事に徹していた。


流石に左の差し合いでは分が悪い事を自覚したらしい。


(打ち終わりを狙っているのか?ならば好都合。いくらお前でもそう簡単には…。)


そう思っていたのだが、相手が打ち込んでくるタイミングは打ち終わりというより、寧ろ打ち始めと言うべきタイミング。


その頻度は大体三発に一発返す程度だったが、返されるたびにノイズの様な何かが自分の中に渦巻き、モヤモヤとした物が残る。


その違いは見ている観客には感じられないほどの差異ではあるが、やられている自身にとっては厄介極まりないものだ。


(何だこれっ。何かこれ…ちょっとずつズレてる?)


どれだけ繰り返し研ぎ澄ましてきたか分からないジャブのタイミングに、少しずつおかしなものが混ざっていくのを感じた。


そしてリズムをリセットする意味でワンツーを放った瞬間、


「…っ!!…くっ!?」


待ってましたと言わんばかりの、右ストレートに合わせたレバーブロー。


そこから返しの左フック、サイドステップを挟んでの右ストレートが襲う。


もらったのは初撃のボディのみで後はガードの上だったが、寧ろ一番もらってはいけないパンチがそれだったかもしれない。


拍子木の音が残り十秒を告げる。


相手はサイドに回った後、間断なく左を突きながら優位を保っていた。


このままでは先ほどの再現だと、こちらもガードを上げ踏み込んでボディを放つが、そんなものが当たるはずもなく逆に軽い左を三発もらってしまった。


(くっそっ、全部右目を狙ってきやがったっ。)


体質もありそう簡単に腫れる事は無いが、それも程度の問題だ。


そしてまたも、こちらにとっては嫌な感覚を残しながらゴングを聞く事になってしまった。

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