第二十七話 第二ラウンド

「左しか使ってこなかったね。警戒しているのか。それとも…。」


それで十分な相手と思われているのか、と言いたいのだろう。


「でも、それはこちらも同じ事だよ。次のラウンドも踏み込み過ぎないで冷静にね。」


諭す様な口調に、先ほどの無様さが頭を過る。


「後、分かっていると思うけど、後半勝負になると思うからボディ気を付けてね。」


セコンドアウトがコールされ、マウスピースを銜えながら頷いた。


そして第二ラウンドのリングへと進み出る。


一応いきなりの踏み込みに警戒しつつ中央で向き合うと、挨拶代わりのジャブ。


「…シッ!」


それに合わせる様に王者もジャブを突き返してくる。


グローブ同士が当たり乾いた音が響いた後、回転ではこちらが上と主張し更に突く。


すると、王者は引く事はせずその場で迎え撃つ様相。


(舐めんなっ!ジャブだけはこっちが上だっ!!)


足首で立ち位置をコントロールしながら、間断なく左を伸ばす。


両者がその軌道を読み切り、左が交互に鼻先を掠める際どいやり取りが繰り返される。


(タイミングは練習よりも少し早いな。軌道は佐藤さんにかなり近い。)


ここにきて、仲間たちとの練習が活きているのを実感し始めている。


回転こそ想定より早かったが、軌道に至ってはそれほどの差異は感じられず、改めて佐藤さんの技量の高さとその献身に頭が下がった。


勿論相沢君も忘れてはいないが。


歓声が鳴りを潜め、鋭い左の攻防戦を繰り返す両者に一時歓声も鳴りを潜めていた。


そんな重苦しい空気の中、神経を使う差し合いがどれだけ続いただろうか。


恐らく体感ほどは経過していないだろう。


だが、それは徐々に拮抗を崩しつつあった。


俺の劣勢という形で。


会場が食い入る様に見つめる中、互いにリードブローの全てを綺麗に捌く事など当然出来ず、ガードが必要になる場面も多々出てくるのだが、その度に少しずつこちらのペースが乱され差し込まれていくのだ。


(何でだっ!?何で差し込まれる?まさかジャブでさえもこいつが上…なのか?)


不意に頭を過った事は、認めたくない事実であった。


全ては、ジャブだけはこちらが上という絶対の自信があるからこそ成り立っている。


もし、それすらも崩れていくとしたら。


考えたくない事実に、心は徐々に揺らいでいった。


そしてそれを見透かす様に、王者の左は更に鋭く苛烈にこちらを痛めつけてくる。


痛みに幻視するのは猛禽類。


獲物を啄み、肉を削ぎ、少しずつ弱らせていく姿。


ここに来て、王者のパンチの質が何となくだが分かってきていた。


(切れるパンチ。以前会長が俺に言ってくれたあれ…か?)


重さというものはあまり感じないが、その分痛みが直接神経に訴えて来る。


骨がむき出しにされていく様な、そんな痛みであった。


気付けば、リング中央に陣取る王者の周りを、俺はまるで羽虫の如く飛び回っている。


王者は中央から動く事はせず、こちらは完全にコントロール下に置かれていた。


(くっそっ!何て様だ…。だが…このまま終われるかよっ!!)


心だけは負けるわけにいかない。


そう言い聞かせて自らを鼓舞する。


「シッ!シィッ!」


先のラウンドを踏襲する、ジャブからの左ストレート。


見せたのは一度きり、対応出来るはず等ないと自信を持って打ち出した。


「…っ!?」


だが、王者は事も無げに初撃を掴む様にして受け止めた後、続く左ストレートには右を添えて受け流し、そこから鋭いサイドステップ。


(…不味いっ!?)


丁度俺を左前から眺める位置に陣取り放ってきたのは右ストレート。


この試合初めて放たれる王者の右は、芸術的なまでに体勢整わぬ俺の側頭部を綺麗に捉えた。


「…くっ!!?」


完全に効いてしまった。


足が言う事を聞かず、今ラッシュを掛けられたら終わりかねないほどの状況。


情けない、負けられない、悔しい、やりやがったな、色々な感情が流れゆく中、様々な葛藤も沸き上がる。














「ダウンッ!」


俺は自分からマットに膝を着いた。


ダウンを拒否する本能を、理性で無理矢理羽交い絞めにしての選択だった。


これは会長から言われていた事でもある。


一度機を逃すと、ダウンする事さえも許されず追い詰められるからと。


元々判定での勝ちなど見込めない試合。


ならば、致命的なダメージを負う前に回復を図ろうという寸法だ。


会場からは、女性の甲高い喜びとも悲鳴とも取れそうな歓声がこだましている。


「………ファイブッ!シックスッ!セブンッ!」


俺はゆっくりカウントエイトで立ち上がると、ファイティングポーズを取った。


電光掲示板に視線を向け残り時間を確認すると、まだ三十秒ほどある。


「…ボックスッ!」


ラッシュを警戒するが、どうやら余裕を見せているのか意外にも慎重な再開。


(足先の痺れは残ってるな。三半規管の乱れも完全には戻ってない。)


正直無理矢理にでも攻めてくるのなら、こちらは覚悟を決めて打ち合うしかなさそうだ。


「…ちぃっ!!」


王者はそんな俺の予想に反して、踏み込んでは来ないが、中間距離から嫌らしく叩いてくる。


しかし一つ幸いな事に、ダメージはそれなりに残っていても、踏ん張りが利かないほどではないらしい。


(打たれるだけは駄目だっ!もう様子見とかそんな事やってる場合じゃないだろっ!!行かなきゃっ!!)


今打つべきパンチは何か。


肉を抉られる様な痛みに耐えながら頭を巡らせ、激しくウィービングを繰り返しながら凌ぎ、相手の動きを観察していく。


(強打だっ。肩から突っ込んでこのラウンドを凌ぐ一撃っ!!)


思い出されたのは、全日本新人王決定戦。


こちらが追い詰めていた状況で放たれ、俺に大きく警戒を抱かせた一発。


あの情景を思い返し、俺も同じ事をしてやろうと思い描いた。


「…フシュッ!!」


意を決して踏み込み、ガードで頭をすっぽりと覆う体勢から放たれたのは、渾身のトルネードフック。


だが、王者はまるで事前に分かっていたかの様に、こちらが踏み込む直前に大きくバックステップ。


覚悟を決めた一撃は標的の影すら捕らえる事は出来ず、稀に見る豪快な空振りとなった。


直後ゴングが鳴り響き、取り敢えず生き残る事には成功したが、力の差を痛感するラウンドだった。


だがまだ試合は始まったばかり。


ここから盛り返していけばいい。


出来るはずだ、きっと。

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