第二十六話 鋭刃

俺はガウンを深めに被り、今まさにリングへとその歩みを進めていた。


「頑張って遠宮君っ。」


「ガツンとやったれ!」


「遠宮!絶対勝てるぞっ!」


「遠宮君の方が強いよ!頑張れぇっ!」


後援会の人達や友人が作る花道を通り、背負うオジロワシをイメージしながら王者が待つリングへ駆け上がる。


まるでデビュー戦を思わせる感覚、照明が身を焦がすほどに眩しく、熱く感じた。


そう錯覚する空気を作っているのは、今まさに眼前に佇むこの男だろう。


「只今より、チャンピオンカーニバル日本スーパーフェザー級王座決定戦っ!十回戦を行いますっ!」


会場のざわつきが一時鳴りを潜め、今か今かと主役の紹介を待つ。


「赤コーナ~今宵最強の挑戦者を倒し、世界へと羽ばたくことが出来るのか。七戦七勝七KO未だ無敗の絶対王者にして日本ボクシング界のニューヒーロー。百三十パウンド~王拳ジム所属~OPBF東洋太平洋第二位、WBOアジアパシフィック第三位、WBC世界スーパーフェザー級十三位、WBO世界スーパーフェザー級十一位ぃ~…日本スーパーフェザー級チャンピオン~~みこしばぁ~~~っゆうぅ~~~~やぁ~~~~~っ!!」


耳をつんざく黄色い歓声が会場に響き渡り、主役が片手を上げ応える。


そのガウンとトランクスには、夥しい数のスポンサー名が記されていた。


どれも一流企業ばかりが並んでおり、それだけでも格の違いを感じてしまう。


だが、勿論こちらのトランクスにもしっかりとスポンサー名が記されている、斎藤酒造の一社だけだがそれだけでも今の俺には充分だ。


「続きまして青コーナー、十一戦十一勝五KOこちらも無敗の最強挑戦者~。百三十パウンド~森平ボクシングジム所属~、OPBF東洋太平洋第十一位、WBOアジアパシフィック第九位、日本スーパーフェザー級一位ぃ~とおみやぁ~~とういちろうぉ~~。」


会場が僅かに沸く。


それでも負けてはいない、負けてはいない筈だと己に言い聞かせる。


「よっ!やったれ!地方の星!」


数少ない声援の中で聞きなれたフレーズが響くが、それはいつもの声よりも少々若い。


(この声、田中か?全く。ふふっ。)


軽く笑みを浮かべ、レフェリーの手招きに従いリング中央へ歩を進めると、初めてボクサー御子柴裕也と向き合った。


(本物だ、この男は。だがそれがどうした。知っている。そんな事は知っているさ。)


そう、自分より上がいくらでもいること等、嫌になるほど理解している。


王者と視線を合わせ互いの気迫をぶつけ合い、高ぶった気持ちはそのままに自陣にて会長の戦略を聞く。


「なるべく早い段階で向こうの引き出しを見ておきたい。特に射程、タイミング、軌道、それらはモニター越しで把握するには限界がある。でも積極的に打って出すぎるのは得策じゃないよ。向こうの学習能力は高い。一度把握されたら触れる事も難しくなるからね。」


つまり強打はなるべく控えて、見せてもいいパンチ、つまりジャブで組み立てろと仰せだ。


「いつも通りですね。」


ジャブなら、どんなに見せても簡単に捌かれない自信がある。


「そうだね。いつも通り。さあ、今夜は君が主役だよ、自信を持って行っておいで。」


リング下に目を向けると、及川さんと牛山さんも力の籠った瞳で頷き返してくれた。













会場の喧騒は一段と増している。


観客それぞれが思い思いを抱える空間、徐々に空気が張りつめていくのを感じ、俺は一度目を瞑ると大きく深呼吸を繰り返した。


そのすぐ後、大一番のゴングが鳴り響く。


対角線上に視線がぶつかり合う中、互いに散歩でもするかの様な足取りでリング中央へ進み、


「よろしくお願いします。」


挑戦者である自分から、胸を借りるという意味も含めて左腕を伸ばし、まずはグローブを合わせ挨拶を交わす。


(一つ一つ丸裸にしていければいいが、焦りは禁物だ。)


王者の構えはやはりデトロイトスタイル。


インファイトには拘らないという意思表示と受け取った。


「シッ!」


ジャブから入るが、少し下がりながらのパーリングで簡単に捌かれる。


初見のはずだが、こちらの想定以上に的確な対応。


ならばそちらのパンチも見たいと誘ってみるが、手を出してくる気配がなく、このままでは一方的にこちらだけを解析されてしまう。


「シッ!シッ!シッ!」


ならば、出さざるを得なくなるまで追い詰めてやると、強い意志を込めジャブ三連発。


やはり全て捌かれるが、思いのほか回転が速かったのか、少しだけ表情が曇ったのを見逃さなかった。


(よしっ!ファーストヒット狙える!)


相手の想定を上回った事実に気を良くして、更に回転を上げて左を突く。


三発、四発、そして五発目を放った瞬間、


「…っ!!?」


ガードの内側と外側、軌道を変えたジャブ二連発が飛んできた。


内側を走ってくる初撃をガードした後、一瞬手首を返すフェイントを交え放たれた一発は、右の肩口を滑る様な軌道で入ってくる。


だが、反応できないタイミングではない。


とは言え綺麗に躱す事は出来ず浅くヒットを許す形になった。


(避けにくい…。何と言うか俺とは真逆のジャブだな。)


最短距離を走る俺のジャブに対し、王者のジャブは軌道で後れを取りつつもタイミングの良さで機先を制してくる。


例えるなら、それは蛇。


腕に巻き付き絡みつき、肩口から牙を剥いてくるイメージを抱いた。


有り得ない方向に関節が曲がった気がしたが、当然それは錯覚に過ぎないだろう。


(フェイントが残像になってるのか、軌道がおかしな感じに見えるな。)


錯覚とは言え、そう見えるものは見えるのだから仕方がない。


こちらも想定外の性能を見せられて伸ばす手が鈍り、僅かな時間睨み合いになった。


すると王者は一瞬ガードを緩めた後、少し退屈そうな表情を見せる。


(この野郎っ、俺との試合はつまらないってかっ!)


カチンと来てしまった。


「シッシッシッシッ!……シュッ!?」


その余裕そうな顔を歪めてやると意気込んで、更に回転を速めたジャブ五連発。


だが、この相手に冷静さを失うなど馬鹿としか思えない所業。


危なげなく四発目まで捌かれた後、五発目を見切られ、強烈に叩き落とされたのだ。


(右が来るっ!!)


体勢を崩され、慌ててガードを上げ側頭部を覆うが、


「…グゥッ!?」


まるで嘲笑う様に踏み込んで放たれた左ボディストレートが、綺麗に俺の脇腹へと突き刺さった。


だがこの瞬間、王者は体が伸び切った状態。


(この距離なら俺のパンチも当たる!)

「シュッ!」


王者が腕を引き戻し体勢を整える前に、こちらも右ストレートを被せていく。


ガードもステップも間に合わないタイミング。


これはもらったと内心ほくそ笑むが、


「…っ!?」


王者はそのままの体勢から更に前に突き進み、ヘッドスリップで回避した後、おまけだと言わんばかりに肝臓を突き上げてきた。


「ぐっ…ぅっ。」


脇腹に突き刺すような痛みが走る。


この展開は不味いとバックステップして距離を取ると、王者は追ってくる事なく、その場で悠然と構えを取った。


レバーブローは自分の様なアウトボクサータイプが、序盤でもらってはいけないパンチの一、二を争う種類のものだ。


それを綺麗にもらってしまった。


(積み重ねられると本当に不味いな。インファイトして勝てるとも思えないし…。)


見るからに警戒をあらわにした表情のまま乾いた音を響かせ、足を使い距離を取る。


手が出なくなれば状況は悪化の一途をたどるだろう。


そうは言っても、無闇に手を出せば先の二の舞。


一度冷静になる為、安全圏といえる距離を確保し、大きく息を吐いた。


「二分!」


頭も冷えた所で、牛山さんの声が響く。


何としても、この心理状態のまま次のラウンドに行くのだけは御免だった。


「…シッ!シィッ!」


ジャブから左ストレート。


一発目は先と同じく軽く捌かれるが、これは想定内。


そして同じように捌こうとした二発目が王者のガードを弾き飛ばした。


(よしっ!狙い通り!)


チャンスと見て、そこから更にジャブを乱れ打つ。


「シッシッシッシッ…シッ!シィッ!」


その内の一発に手応えあり。


クリーンヒットとは言えないが、あの端正な顔を弾いた感触が確かに残っている。


必要以上に情報をやりたくはないが、ジャブのみで状況を打破出来る相手ではないだろう。


だがこれで少しは流れも良くなるはず。


そう思い向こうの表情を見やると、一目気にした様子は伺えないが、向かい合っている俺だけには分かった。


(プレッシャー強めてきたな。こちらは一つ手の内見せたんだ。お前も見せろよ…。)


序盤は情報が欲しいと言っていた会長だったが、今の所何一つ掴めていない。


せめてタイミングくらいは、仮想相手とどれだけ違うか知っておきたい所だ。


残り十秒を告げる拍子木が鳴り、手を出してこいと誘う様に軽く左を突くと、王者はクイっと手首を使ったフェイントでこちらを惑わす。


(…来るっ!)


放たれたのは鋭い左の三連打。


内側を抉るジャブ、そのまま返しのアッパー、そして肩口から滑り込んでくる、どちらかといえばフック気味のブロー。


「…っ!!」


二撃目から三撃目へのコンビネーションが特に鋭く、ガードが間に合わなかった。


だが、力を込めて打ったという感じではなく、さっきの挨拶代わりといった所か。


そしてゴングが鳴り、向こうにとってはどうか知らないが、俺にとっては濃密な第一ラウンドの終わりを告げた。

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