Genius side 4
試合まで一週間を切ったそんなある日、寒さも忘れ縁側にて鹿威しの音を聞きながら優雅に過ごす。
「…邪魔するよ。」
何の気紛れか、綾子さんが横に腰掛け共に庭園を眺める事になった。
俺はまだしも、バスローブ一枚で寒くは無いのだろうか。
「…勝つのが当たり前と思われている時こそ気を付けな。」
そんな事はとうに分かっている。
「あんたが強いのは門外漢の私でもよく分かってるよ。それでも気を付けな。番狂わせってのはいつもこういう空気で起こるんだ。」
こういう空気とはどういうものかと視線で問い掛ける。
「誰一人あんたの勝利を疑ってない。周りも先の事ばかり話してる。私が言える義理じゃないけどね…でも安心しな。例え何かあって躓いても、計画通り進められるようには手配しておくさ。」
確かにこの人ならば、そんな不測の事態さえも売りにして、更に俺を押し上げてくれるだろう。
まあ、そんな事にはならないが。
「もっと大きな会場でやりたいかい?」
会長達はそうしたいように見えたが、この人がストップを掛けている様だ。
そう言えば特に考えていなかったが、何故あの小さな会場に拘るのだろう。
俺の疑問を察したか、綾子さんはふっと軽く笑みを浮かべ口を開く。
「何でも頃合いってのがあるのさ。それに、席が限られているからこそ熱狂を呼び込める…。」
手に入らないからこそ、その思いは募る、という事だろうか。
まあ、そのあたりは俺が考える必要はない。
「さて、私は戻るよ。あんたも冷えないうちに戻りな。」
「ああ…分かってるよ。」
初めて会った時に比べて随分丸くなったものだ。
それとも、元からこういう人物であったのだろうか。
俺にそれを感じ取る人としての器が足りなかっただけで。
二月二十九日、計量会場ホテルロビー。
送迎の車から降りた瞬間、目の眩む様なフラッシュが眼前を覆う。
心なしか、迎えてくれた白井も多少気圧されて見える。
俺は報道陣に軽く手を上げ応えると、会場へ足を踏み入れた。
そして人の波を掻き分け進み、計量台へと上がる。
「…五十八,九㎏、御子柴選手、スーパーフェザー級リミットです。」
これだけの事で会場が大きく沸いた。
ざわつく会場の声を聞きながら、計量台を降り服を着る。
そして視線の先に捉えたのは、幼い顔の作りが印象的な男。
今回の相手、遠宮統一郎だ。
どうやら記者に促されてか、こちらに歩み寄ってくる。
(近くで見ると余計に幼く見えるな。プレッシャーは特に感じないが体は作り込んでる。…ふむ。)
この姿を見る限り、白井があれほど警戒する何かがあるとは思えない。
「明日は宜しく…。」
優和な笑みを浮かべ、手を差し出す。
「はい。全力でぶつからせてもらいます。」
相反する様に、向こうは強張った顔で腕を伸ばした。
手には長年積み重ねたであろう拳ダコが出来上がっている。
その手を握りながら俺はジッと目を覗き込む。
(…お前は何か持っているのか?それとも…只の杞憂か?)
覗き込んだ所で、応えが返ってくる訳でも何か分かる訳でもない。
ここに立っている男は、まだ俺に噛み付いてくる存在ではないのだから。
全ては明日分かる事。
群がる記者の声に応えながら身を翻し、その場を後にした。
自宅へ帰り着くと食事を済ませ、コートを羽織り縁側に腰掛ける。
「何やってんだい…。昨日といい今日といい…そんな事して体調崩したら目も当てられないよ。」
気温は十度前後だが、風が無い為かそこまで寒くは感じない。
「…で、あんたから見てどうだった?あの坊やは。」
視線を泳がせて昼間の相手を思い出す。
「何も感じなかったな、普通だった。まあ、体は意外にがっしりしていて顔は幼く見えたってとこかな。」
正直に感じた事を伝えると、綾子さんも隣に腰を下ろした。
「そうかい…私はモニター越しでも感じたけどね。あぁ…この子は何か持ってるなぁって…さ。」
一体なんだというのだろうか。
白井といい綾子さんといい、あの男に何があるというのだ。
俺には分からない。
「気にするこたないさ。所詮素人が言ってる戯言だからね。」
一流は全てに通ず、という言葉がある。
恐らくその意味は技術や身体の事ではなく、感覚の事を言っているのではないだろうか。
何となく感じる、理屈では証明できない第六感。
それが告げる警告を察知できる者。
それを本物の一流と呼ぶのかもしれない。
だとすれば、俺はまだまだ足りていないという事なのだろう。
本当にあの男がそんなものを持っているならという前提ではあるが。
「部屋に戻りな。プロなんだろ?しっかりコンディション整えておくんだね。」
タイミングを合わせた様に二人立ち上がると、互いに背を向けそれぞれの部屋へと戻っていった。
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