第二十三話 その声に縋る

試合まで二週間を切ると俄然減量は苦しさのピークを迎える。


「…寒いな。」


俺が感じる減量においての一番大きな問題は、精神が弱っていく事だ。


その一つの例として、毎日悪夢を見るようになる。


どんなに手を伸ばしても届く事は無く、一方的に打たれ敗れる、大体そんな夢だ。


そしてそういう時、今は絶対に考えてはいけない事まで頭を過る。


(葵さん、もうすぐ会えなくなっちゃうんだ…。そしたら一人でこの苦しみに耐えなきゃならない。出来るのか?俺に……)


弱っている体は精神さえ支配していき、不安ばかりが首を擡げる。


そんな風に頭を悩ませながら、自分の事で手一杯の癖に相手の事まで考えてしまうんだ。


(向こうはどうしてんのかな?才能あるやつってのはこんなこと考えないんだろうか…。)


自己評価、相手の戦力、自分の環境、相手の環境、色々な事を考えては不安だけが募っていき、弱った心を更に追い詰める。


当然思考をプラスに傾ける力も湧いてこない。


(仕事行きたくないな…疲れるし…。今だけ休んだら駄目かな…。)


だが、それでも掛けられる期待を思い出せば立ち上がらなくてはならないと奮起する。


体を削り、心を削り、それでも自分が選んだ道だと言い聞かせて。














二月二十四日、佐藤さんが前日計量に旅立つ日だが、距離がそれほどでもないので出発時間は遅め、俺は絶賛仕事中だ。


それほどでもないとは言っても当然四時間くらいは掛かるので、あちらのホテルで今日は休む予定との事。


だが俺の試合も近い、その為及川さんだけがこちらに残り練習を見てくれる事になった。


大事なこの時期を任される、その事実だけでも会長がどれだけ彼女を信頼しているのかが窺える。


「よろしくお願いします!」


そしてミット打ち、シュッとした細い女性という事もあり、最初は遠慮して打っていたが、快活な檄に促され次第にいつも通りに放つ。


彼女の動きは一つ一つの所作が思っていた以上に手慣れており、それは常日頃からミットを持っている者の手付きだ。


「有難う御座いました!…はぁっ…はぁっ…はぁっ。」


彼女はミットを外すと、次の準備にかかる。


「じゃあ次スパー行こうか。きついのは分かるけど休ませないよ?そう言われてるからね。」


そう言った後、手早く俺と明君にグローブとヘッドギアを嵌めていく。


俺が十六オンス、明君が十二オンスだ。


今俺は減量で体重やスタミナ、そしてタフネスも落ちており、明君は万全の状態。


グローブのハンデもあってか、内容は思いのほか苦しいものになった。


心も弱っているのだろう、痛みへの耐性も落ちている様な気がする。


それでもここは強がるべき所、少なくとも弱音を吐く場所ではない。









「有難う御座いました!…はぁっ…ふぅ~~っ。」


四ラウンドのスパーを終え、両者のグローブを片方だけ外してもらった後、もう一方も紐を解き外していく。


「明君、強くなったね。あまり俺とは手を合わせる事ないから分からなかったよ。」


見ているだけでは分からない事もある。


実際、彼のパンチは自分の思っていた以上に重く鋭くなっていた。


「あ、有難う御座いますっ。でも遠宮さんは今弱ってるから…。」


そういう事ではないのだ。


自分が弱っている事を加味しても、彼の成長は十分に感じた。


俺自身まだその程度の能力は残している。


「そんな事ないよ。明君成長してるよ。これはこの先も期待出来るね。」


俺の言葉で少しでも自信がつくのなら安いもの、そう思って褒め称えた。


自信がなければ、いざ瞬間的な判断が必要な時に迷ってしまうだろう。


そして彼は自信を持ってもいいほどには練習を積んでいる。


「私からすればどっちも伸び盛りって感じだけどね。」


そう言われ忘れていた事に気付く。


自分自身も成長しているのだという事に。


「今は疲労もかなり溜まってるから動きが悪いけど、遠宮君も毎回試合の度に成長してるの分かるよ?外から見てるとね。」


確かに思い返せば、挑戦者決定戦、相手は強い選手の筈だがそこまで脅威には感じなかった。


「そっか…。成長してるのか、俺も…。」


人に言っておいて、一番自信を持っていなかったのは自分かもしれない。


鏡を見れば、頬がこけた男の顔が映る。


(成長してるらしいぞお前。だから大丈夫。きっと何とかなる。大丈夫だ。)


鏡の向こうの自分へ、少しでも前に進む原動力になればと語り掛ける。


「じゃ、私向こうのジムに戻るから。明日も早いしね。」


ひらひらと手を振りながら去る背中に一礼し、その日の練習を終える事とした。












二月二十五日、勿論仕事だ。


明君の場合、試合の日はどうしようもなくそわそわしてしまうのだが、佐藤さんの場合、その実力を知っているせいかあまり心配していない。


相沢君とのスパーを見る限り、その実力は国内上位ランカークラスは間違いなくあるだろう。


その彼がこんな所で黒星を喫するのはちょっと想像がつかないのだ。


仕事終わり、明君と二人だけだが熱の入った練習をこなす。


誰の目もないからとサボるどころか、俺の場合オーバーワークに注意しろと釘を刺されていた。


なのでいつもの練習量よりも少し多いくらいで止めておき、体重計に乗る。


六十,七㎏。


計量まであと四日の時点で漸くリミットまで二㎏を切った。


肉を削る作業は既に終わり、ここからは精神の戦いだ。


「大丈夫そうですか?あの、体重は…。」


気を使いながら問い掛けてくる明君に問題ないと答える。


体はかなり苦しいが、減量自体は順調。


計量は二十九日土曜日、試合は三月一日の日曜日。


後は体調を崩さないように気を付けるだけ、それだけが心配の種だ。


次の日、佐藤さんの試合結果を聞くと五ラウンドTKO勝ち。


何の心配もないと言わんばかりに綺麗な顔で帰ってきた彼とハイタッチを交わした。


次は俺の番。


相沢君の結果については言わずもがなといった所だろう。















計量日前日、彼女の声が聞きたくなり遅い時間だが電話を掛けてしまう。


数回の着信音の後、少し眠そうな声が通話口から聞こえてきた。


「ぁ、ごめん…、こんな遅い時間に。」


『いいよ別に。どうしたの?…不安?』


そんな事はない必ず勝つよ、そう言いたかった。


なのにどうしてだろう。


彼女の声を聞くと、そんな強がりも言えなくなる。


甘えたくなるんだ、どうしようもなく。


不安の全てを吐露して、大丈夫だよと言ってほしい。


「ぅん、不安。簡単に負けちゃったらどうしよう…。俺は…こわぃっ…、こわ…ぃ。」


口が渇いて、声が掠れて言葉にならない。


知らず知らずのうちに目からは涙が零れ落ちていた。


押さえていた不安がとめどなく溢れ、どうしようもないほど弱い自分を露呈してしまう。


『大丈夫だからっ!一郎君は大丈夫っ!絶対大丈夫だよっ!!』


電話口から聞こえる声に縋り付き、しがみつく。


すると、体の芯に僅かながら熱が灯った。


何の根拠もない言葉なのに、何故こうも勇気が湧いてくるのだろう。


『そうだっ。チャンピオンになったらさ、プレゼントしてくれたぬいぐるみあるでしょ?あれにさ、サイン書いてよ。チャンピオン遠宮統一郎って。』


「ぅん…。分かった…。」


たったそれだけの約束。


たったそれだけで俺は、何度でも立ち上がれる。


そんな気がした。

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