第二十話 彼女と過ごす日

「ねえねえ、私、一郎君のお部屋に行ってみたいな~。」


ある日、電話での会話中、葵さんは明るい声で語る。


可愛らしい声でそんな事を言われたら、男として応えない訳にはいかないだろう。


と言うわけで一月最後の日曜日に約束を取り付け、珍しく次の日が休みという事もあり、連休を葵さんと謳歌する事にした。


部屋まで迎えに行くと言ったのだが最寄りの駅までは電車で行くというので、ほんの少しの距離迎えの車を出すことにする。


かなり早い時間の電車に乗ったらしく、こちらに着いた時刻は午前九時頃。


ロードワークを終え、シャワーを浴びて駅に向かったら丁度と言った感じだった。


駅で佇む姿を視界に収めると、その出で立ちはゆるっとしたハイネックセーターに珍しくジーンズを合わせた形。


いつもは降ろしている髪も、今日は後ろでまとめていて印象が少し変わって見える。


「ふふっ、何だか新鮮だね。見慣れた景色なのに。」


ほんの二年ほど前には毎日の様に通っていた景色だ、そう感じるのも当然だろう。


そう語りながら吐く息の白さが気温の低さを示しており、暖かくしてある車内に急いで招き入れる。


「ではどうぞお乗りください。早速部屋へと案内させていただきます。」


冗談めかしの丁寧口調で語った後、彼女を乗せ取り敢えず部屋まで向かう事にした。















「お邪魔しま~す。わっ、凄い良いお部屋っ。」


住み慣れた自分でも良い部屋だと思うのだから、初めて見るなら猶更だろう。


「俺の部屋はこっちだよ。」


都合よく叔父は留守にしている。


まさかとは思うが、今日家に彼女を呼ぶのを察知していた訳ではあるまい。


「へぇ~、和室なんだね。うんうん、一郎君の匂いがするよ。」


そう言いながら、くんかくんかと鼻で息を吸っている。


匂いという意味では彼女の部屋の方が遥かに良い匂いがすると思うのだが、そこは男女の違いというものだろうか。


「座ってて、今お茶入れるから。」


語り掛けながらエアコンのスイッチを入れ、座布団を引っ張り出した。


敷いた座布団の上に座った彼女は、軽い返事をしながら部屋を見回している。


敷布団は片付けているしポスターなども貼っていない為これと言ってみるべきものもなく、非常に殺風景な部屋で少し申し訳なく思った。


この部屋でする事と言えば、殆ど寝る以外にはないので必然的にそうなってしまうのだ。


台所に向かい、この日の為に買ってあったケーキと梅昆布茶を入れ部屋に戻ると、


「こういうマフラー持ってたんだね。でも巻いてるの見た事ないな。もしかして大切なもの?」


視線を向けると、彼女が手に持っているのは明日未さんからのプレゼントである手編みのマフラー。


その姿に何とも言えない気分になった俺は、思わず言葉に詰まってしまった。


「あ、それは…その…。」


その反応に、鋭い彼女は全てを察した様だ。


「あっ、なるほど。手編みか~、凝ってるね~。」


チクチクと胸に何かが突き刺さる様な気がしたが、彼女からはさして気にした様子は見受けられない。


「そんな顔しないで。大事に出来る思い出があるって良い事だよ。」


それ所か、優しく語り掛けながら慰める様に頭を撫でてくる。


今の俺はそんなに情けない顔をしていたのだろうか。


それはそうと、全くヤキモチ一つ焼いてくれないという事には何だかモヤモヤしてしまう。


何とも言えぬ感情を抱えたまま立っていると、彼女の視線はお盆の上に注がれた。


「あ、美味しそうなケーキ。でも大丈夫なの?」


減量はという意味だろうが、試合までまだ一か月以上あるので、本格的な減量はまだこれからだ。


何より今は、彼女と過ごす時間を楽しいものにしたい。


小さなテーブルを囲みこうして向かい合っていると、彼女の視線は棚に立て掛けられた写真に向かう。


「あれ、お父さん?…ふ~ん、カッコいいけど一郎君とはあんまり似てないね。」


自分でもそう思う。


父は掘りの深い顔立ちをしているが、自分はそれほどでもない。


「お母さん似なのかな?小さい頃に離婚したんだよね。写真も持ってないんだ?」


彼女が何の気を使う訳でもなくそう言えるのは、俺自身が全く気にしていない事を知っているからだ。


しかし彼女が見たいというなら見せてやりたいと思い、押入れにそれらしいものがないか探してみる。


すると案の定、それらしき一冊のアルバムを見つけた。


恐らく引っ越してきてからこのアルバムを開くのは初めてだ。


「凄い綺麗な人だね~。しかし一郎君を捨てるとはけしからん人だ。う~ん、でもおかげで私は巡り合う事も出来たし、一応お礼も言っておかなくちゃね。」


そんな考え方をした事はなかったが、確かにそう言えなくもないかもしれない。


物事は全て考え方次第という事なのだろう。


父の事故でさえも今では色々な考え方が出来る。


悪い事ばかりでは、悲しい事ばかりでは無かったと。


そんな考え方が出来るようになったのも、いつも暖かい笑顔を見せてくれる彼女の影響が大きいのだが。


「葵さん、いつもありがと。」


自然とそんな言葉が口から出ていた。


「きゅっ、急にどうしたの、もう、何か照れるな~。」


誤魔化す様にケーキを小さく頬りながら、彼女は小さく笑う。


「俺はいつも葵さんに救われてる。だから、何か出来る事ない?してほしい事ない?」


俺はいつも与えられてばかりだ。


物理的なものだけではなく、精神的にも一体どれほど彼女に救われてきたのだろうか。


思い人が遠くに行ってしまい、その代わりを求めて縋ってきた最低な男を、半分抜け殻みたいになった俺を、それでも彼女は優しく包み込んでくれた。


その彼女も、もうすぐ遠くへ行ってしまう。


だが、依然と同じ様に弱い自分を晒す訳にはいかない。


それでは、今まで彼女と過ごした時間が何の為にあったのか分からなくなってしまう。


「そうだな~。」


いつも通りの笑顔を浮かべ、暫し中空に視線を泳がす。


「じゃあ、勝ってよ。勝ち続けて、チャンピオンになって、一郎君。もっともっと活躍して。…どこにいても私が一郎君を見れるように。」


今日の天気は曇りだが、この部屋だけに太陽が差し込んだ気さえした。


だが、そんな眩しい笑顔を向ける彼女の願いは、結局自分の事ではなく俺の事だった。


「それでいいの?俺は…葵さんの為に何かしたいよ…。」


俺の言葉に対し返されたのは、吸い込まれるほど透明な、そして柔らかな笑み。


「じゃあ、私と同じだね~。私も一郎君の為に何かしたいな~。ふふっ。」


お互いが視線を合わせると、苦笑しあい自然と唇が触れ合った。


こういう場合今までは殆ど彼女に委ねていたが、今日は主導権を譲りたくない。


右腕は頭を抱える様に、左腕は体を支える様に腰へ。


最初は軽く触れ合う様に、そして徐々に舌を絡めつつ衣服を脱がせていった。

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