第十八話 隠れた日常

「じゃ、お世話になりました!」


時刻は昼過ぎ、合同練習を終えた相沢君が元気よく声を出してジムを後にする。


今日は日曜だが、みんな揃って見送りのためジムに集まっていた。


「じゃあな統一郎。あのいけすかねえ奴に負けたら鍛え直すからな!」


彼は愛車のスポーツカーに乗り込むと、全開まで開けたウインドウから声を掛けて来る。


「やるだけやってみるよ。さすがに絶対とは確約出来ないけどね。」


俺の煮え切らない答えに少しつまらなそうな顔をした後、見送る全員に頭を下げ、雪を踏みしめる音と重低音を響かせて走り去っていった。


たった三日間ではあったが、全員にとって大きな刺激になったはずだ。


相沢君にとってはどうだったかと言うと、三日連続で三人を相手にスパーをして、充足感の満ちた表情をしていたので、恐らくそれなりに収穫のあった時間を過ごせていたのではないだろうか。


「三日しかいなかったのに、何だかやけに馴染んでましたね。」


少しだけ寂しそうな声で佐藤さんが語った。


俺としても、いつも通りに戻っただけだと言うのに、こんなに静かだったかと感じてしまう。


「賑やかですからね、相沢君。少しの間は物足りなく感じるかもしれないですね。」


さてこれからどうするかと思いそれぞれを見やると、試合の近い二人は当然の如く練習を開始するようだ。


いつも日曜はロードワークだけだが、折角来たのにただ帰るのも勿体ない。


牛山さんも彼らのミット持ち等をする為、一緒にジム内に入っていく。


会長はと言うと、毎週日曜はボクシング教室がある為フィットネスジムの方へ向かう様だ。


その背中を見やり、そう言えば向こうの営業時間中にお邪魔した事がない事実に気付く。


「会長、俺も少し様子見に行ってもいいですか?」


「ん?珍しいね。うん、いいよ。子供たちも喜ぶと思うしね。」


許可をもらい、歩いて二十分程度の場所にあるそこへ向かう事にした。











「うわぁ、結構賑わってるんですね。」


中に入ると、各々自分を鍛えるべくマシンと奮闘中の会員さん達の姿。


ジム内にはサンドバックもあり、近所の主婦らしき人が元気に叩いている。


「あら珍しい。遠宮君がこっちに来るのってもしかして初めてじゃない?」


そう言って、体の線がくっきりと出るトレーニングウェアを着た及川さんが歩み寄ってきた。


自分のスタイルに自信がなければ中々着るのは難しいだろう。


「すいません、殆ど顔出さないで。何だか邪魔になっちゃ悪いと思ってしまって。」


和気あいあいとした空気の中、一人だけ鬼気迫った顔でシャドーとかやっていたら浮くなんてものではないだろう。


「気にしなくていいのに。遠宮君見れたらみんな喜ぶと思うよ?ほら、さっきからみんなこっち見てるでしょ?」


視線を中央の方へ向けると、リングに見立てたマットを敷いてある横、その場所には十数人の子供達が行儀よく並んでいた。


年齢はまちまちで、中学生もいれば小学校低学年らしき子もいる。


どうやら彼らが毎週会長に手ほどきを受けている子供達らしい。


その中には、少ないが女の子の姿も見える。


口々に『統一郎だ、統一郎だ。』と言っているのが聞こえ、呼び捨てにされていることに対し若干の苛立ちを覚えながらも、軽く会釈を返しておく。


そして会長の声が掛かるとそちらを向き、真面目に言われた通り体を動かし始めていた。


「あれ?そう言えばここの定休日っていつなんですか?今日、日曜ですよね?」


日曜は休み、それが当たり前だと思っている為、もしかしたら物凄くブラックな職場なのではないかと思ってしまった。


「定休日は毎週水曜日で、それ以外は基本的に営業してるよ。」


それだと休みが週一日しかないということになってしまうが、よくやっているものだ。


「ふふっ、そんな顔しなくても大丈夫だよ。好きでやってる事だし、楽しいからね。後、知り合いで協力してくれる人もいるから。」


試合の日や、都合の悪い日などはその人にお願いしているらしい。


「そんな事より、サンドバック叩いてみない?皆、見てみたいって顔してるし。」


勧めに従い、今日はここで練習していく事にした。








いつも通りの入念なストレッチを行った後、バンテージを巻いた所で会長から手招きされ、そちらへ向かう。


「みんなも知ってると思うけど、うちの看板選手の遠宮統一郎君です。」


会長から紹介されると、子供達から知ってる知ってると声が上がった。


「今日は彼に手本を見せてもらおうと思います。」


少し戸惑いの表情を見せる俺と、期待で目を輝かせる子供達。


これはやるしかないと気持ちを切り替え、会長の指示を待つ。


「じゃあまずは、みんなもいつもやっているジャブ。これぞプロのジャブというものを彼に見せてもらいましょう。」


少々ハードルを上げられ緊張するがジャブは自分の代名詞、これは半端なものを見せるわけにはいくまい。


「シッ!」


そう思い鋭く打ち出したのは、手加減など微塵もない、試合を想定した本気のジャブ。


会長に視線を向けると頷くので、引き続き軽快に左を伸ばす。


「早いよね?皆はこれを避ける自信あるかな?…うん、ないよね。それは当然、ジャブはその為のパンチでもあるからね。だからこそ、防御も攻撃と同じくらい大事なんだよ?」


子供たちに羨望の眼差しを向けられ更に調子に乗って来た所を、会長から静止の声。


「次は牽制のジャブからワンツー。」


言われた通りに放つ。


「次、ジャブから左ストレート。更にボディへ真っ直ぐ左。」


左三連打、相手のリードブローを掻い潜るイメージで放つ。


「このように、左一つとっても色々な役割があり、選手一人一人に特徴があります。特に彼の場合それが顕著であり、今まで勝ててこれたのはこの左のおかげと言っても過言ではないでしょう。」


会長が重要性を説く横で、うんうんと頷きながら聞き入る。


すると、おずおずと控えめに手を上げる子供が一人。


「あの~、俺左利きなんですけど、その場合は…。」


何だかどこかで聞いた事のある様な疑問だった。


「変わらないよ。利き腕に関わらずリードブロー、ジャブの重要性は変わらない。」


実際の所、サウスポーの場合ストレートの方が重要なイメージもあるが会長が言うならそうなのかもしれない。


説明をしながら、もういいよと視線で伝えてきたので自分の練習に戻る事にした。










五ラウンドほどのシャドーをこなし、空いたのを見計らってサンドバックへ。


グローブはジムに備え付けの物を貸してもらい準備完了。


吊るすタイプ以外のサンドバックは初めてなので少しワクワクする。


取り敢えずジャブ、そしてワンツー。


かなり強めに打ったが、凄く重量感があり全くビクともしない。


これならと思い次々とコンビネーションを打ち込み、気付けば軽くやるつもりが、汗が滴るほど熱中していた。


「調子良いみたいじゃない。皆、凄い凄いって釘付けになっちゃったよ。これならタイトルマッチも期待出来そうだって。」


没頭していて周りの事が全く見えていなかった。


だが、迷惑な感じではなさそうなのが幸いか。


「有り難うございます。及川さんも当日はよろしくお願いしますね。」


「任せておいて。しっかりサポートするから、このビッグマッチ必ず取ろうね。」


返事を返し、この日はこれで終わる事にした。


「じゃ、どうも、失礼しました。…あ、はい、頑張ります。」


クールダウンとストレッチを終えバンテージなどを外していると、運動を終えた会員さん達が激励してくれる。


その声を聞きながら、新鮮な環境を十分に満喫したあと帰路に着いた。

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