第六話 成長を感じる季節
ホテルに荷物を置くと、以前にも訪れたホール隣の武蔵植物公園へとやってきた。
入場料を払いベンチに座ると、木々のざわめきが聞こえ何とも言えない心地良さがある。
少し残念なのは、紅葉の見ごろにはまだ早いらしく、殆どは青々としている事か。
それでも木々の間から吹き抜ける風は涼やかで、高ぶった心を静めてくれる。
(うちの近くにもこんな場所あればいいんだけどな。)
そんな事を思いながら、結構な時間景色を眺め癒されるのだった。
そして、ここでふと思い出す。
(そういえば、試合前のジンクスいつの間にかやらなくなったな。)
ジンクスというのは、以前やっていた相沢君へのメールの事だ。
おもむろにスマホを取り出すと、さて何を送ろうかと考えながら打ち込んでいく。
『相沢さんお久しぶりです。風の気持ちいい季節になりましたね。昨今、揺らいでいる政治情勢などを鑑みれば、依然として予断を許さず…』
政治の事など何も分からないが、適当に書き連ねてみた。
待つこと十五分程。
『そうだな。円高が加速した場合、一番影響を受けやすい銘柄は旅行業辺りだろう。故に時期を見計らって買うなら一考の余地はある筈、だが……』
向こうからも訳の分からないのが返ってきてしまう。
結局電話する事にした。
「あ、相沢君?もしかして株やってんの?儲かる?」
もしかしたら億単位の儲けを出しているんじゃないかと勘繰り、少し興奮してしまった。
「株なんてやってる訳ねえだろ。そっちから訳分かんねえの来たから、やり返しただけだ。」
電話口からは少し呆れ交じりの返答が返ってくる。
正直、彼ならそんな顔があってもおかしくないと思ったので残念だ。
「で?明日試合だろ。そういや、前もこんな変なの送ってきたな。これ何なんだ?」
何となく恥ずかしかったが、自分なりのジンクスである事を伝える。
「は?…下らねえ。勝利なんてもんはそれに足る力がありゃ付いてくるもんだ。」
おっしゃる通りという感じ。
言い返す言葉もなく、押し黙っていると、
「まあ、気持ちは分からないでもねえ。やるべき事を全部やったら、後は神頼みくらいしか出来る事がねえのも事実だからな。」
言い過ぎたと思ったのか、その声からはこちらを気遣う気配が伺える。
「そういえばさ、今度うちの佐藤さんがそっちにお邪魔するので宜しく頼むね。」
佐藤さんという名前に馴染みが無いのか、少し考えた後、
「ああ、あの人か。いや、確か俺と同じ階級じゃなかったか?今は良いけど、そのうち当たったら遠慮なく潰させてもらうからな。」
そのうちと言ったが、もし当たるとなればそれこそ世界戦くらいしかないだろう。
そう考えると、今の段階ではあまり現実味がない話だと思った。
「ま、まあ、それでもさ、挨拶くらい良いじゃない。」
そんな会話を続けている時、伝えなければならない話を思い出す。
「そうだ。俺スポンサー付いたよ。」
驚く声を期待したが、その返答は意外なものだった。
「凄えじゃん。俺も付いたぞ、四社。まあ、県内企業ばっかりだけどな。」
「あ……そう。凄いね…。」
驚かされたのは逆にこちらだった。
「じゃあ、俺も練習あるからそろそろ切るぞ。じゃあな。」
「あ、うん。じゃあ。」
何と言うか、器の違いを見せつけられた様な気分だった。
それでも、自分が目標にしている人物の一人が活躍するのは悪い気分ではない。
(まあいい、俺は俺だ。まずは明日、そしてその先の日本タイトルだ。)
十月十三日試合当日、赤コーナー側控室。
部屋に漂う空気がこれまでとは違っていた。
今日行われるのは、その全てがタイトル挑戦権を賭けた試合。
控えているのは当然一線級の選手になる為、殆どが上を目指す野望で目をぎらぎらさせている。
まあ、中にはイヤホンで音楽を聴きながら鼻歌を歌っている人もおり、ここまでリラックスするのが吉と出るか凶と出るか微妙な所だ。
もし今日勝った後、次もこの会場でやると仮定した場合、控室はここではなく個室の部屋が用意される。
よくテレビ中継などでは、沢山の人がその一室の中にいるのを見るが、うちのジムの場合人員が少ない為、恐らく広々と使える事だろう。
故に、順調に進めばこの控室に俺が来る事はもうない。
そう思うと、今までの色々な場面が思い出された。
そんな感傷に耽ったせいか、周りの空気とは裏腹に、何故か落ち着き払っている自分を感じる。
かと言って、緩んでいるという訳では無論ない。
余裕を持って臨める理由は、何となくだが理解していた。
備前直正という、一つの壁を越えた事が大きな要因であるのは間違いないだろう。
幼少の頃から一つの目標でもあったあの前王者を越えた事で、自分の中の何かが一段階上積みされたものと思われる。
自分も成長したものだと感じていた時、
べちゃりっ
「むぅ…。」
ワセリンの感触で顔をしかめてしまい、やはりさほど変わってないと思い直した。
「前の試合終わったみたいだね。じゃあ、行くよ。」
会長の言葉に頷き、トントンと体の感触を確かめる。
牛山さんが氷の入ったクーラーボックスを担ぎ、こちらを向いて頷く。
及川さんも必要な道具を持ちこちらに視線を向け頷く。
ガウンを纏うと同時に、完全に自分の中の何かが切り替わった。
「行きましょう。」
「只今より、日本スーパーフェザー級タイトルマッチ挑戦者決定戦八回戦を行います。」
客の入りは上々、勿論後援会の人達も応援に駆け付けている。
「待ってました!地方の星!」
響くフレーズに、相変わらず会場からは失笑が漏れていた。
だからそれはやめてほしいと思うが、悪気が無い事も理解しているので言うに言えない。
リングアナが一度咳払いをした後、選手紹介を続ける。
「赤コーナー百三十パウンド、森平ボクシングジム所属、十戦十勝未だ負けなし。十勝の内四勝がナックアウト勝ち、現在日本スーパーフェザー級一位、とおみや~~とういちろう~~~。」
三十人ほどはいるであろう応援団が精一杯の声を張り上げる。
「よっ!未来の世界チャンピオン!」
この独特の合の手を入れるのはいつも同じ声だが、一体誰なのだろう。
「続きまして青コーナー、百二十九パウンド二分の一、ダイヤモンドジム所属。十五戦十二勝三敗、十二勝の内五勝がナックアウト勝ち、WBOアジアパシフィック第九位、そして日本スーパーフェザー級二位、すがわら~~ひろ~たか~~。」
「…ローブロー、バッティングに気を付けて…」
両者気合は十分といった所。
グローブを軽く当て、自陣へと戻る。
「統一郎君、正面には立たないようにね。左警戒、後は好きにしていいよ。」
信頼を寄せられているという事が分かると、胸の内に熱いものが込み上げてくる。
「はいっ、慎重に、でも大胆に行きますっ。」
トントンと跳ね首を何度か回した後、開始を告げる甲高い金属音が響いた。
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