第三話 見守る心境

八月下旬、明君のデビュー戦まで後十日程。


「頭を振るっ!ボディしっかり返してっ!上体動いてないっ!ほら、だから打たれるっ!」


会長は基本的には優しい。


だが、それは必要な時には鬼の様に厳しくもなれるという事だ。


スパーの相手は佐藤さんなので、自分の距離にすること自体難しいのだが、だからこそ、それが出来れば大きな力になる事も確か。


会長にしても、難しい課題を突き付けているのは分かった上で、それを越えてほしいと願っている筈だ。


だが先輩としては精神面のフォローもすべきと思い、練習後、秤に乗っている明君に声を掛ける。


「減量、大丈夫そう?」


そう語りかけながらメモリを見ると、既に五十㎏弱といった様子。


明君の階級はライトフライ級で約四十九㎏がリミットになっている。


なので、時期的に少し落とすのが早すぎると見受けられた。


「もう少しゆっくり落としてもよかったかもね。きついでしょ?」


そう言って顔色を覗くが、割合色つやも良くそこまできつそうでもない。


「お母さんとかが凄く協力してくれるんで、なんか思ったより順調です。」


口調もはっきりしており、動きも見た限り切れていた。


これは期待出来ると思い視線を横に向けると、会長も頷いている。


「坊主は自分を基準に考えてっからな、みんながみんなそこまできつい減量するって訳じゃねえんだよ。な?会長。」


そんな事を言われても、自分以外の基準などある訳もない。


「そうですね。僕なんて良い例でしょうね。やっても二、三㎏くらいでしたし。」


まあ、人は人、自分は自分という事だろう。


俺にしても苦しいは苦しいのだが、現状を鑑みれば何とか同じルーチンで回せている。


「そういえば、明君の相手どんな選手か分かってますか?」


俺が知ったからと言って出来る事等ないかもしれないが、気になってしまうのが人情。


「一戦しかしてない相手だからよく分からないね。でもまあ、この仕上がりなら何とかなると思うよ?」


会長にしては珍しく曖昧な言い回しをするものだ。


だが逆に汲み取れば、相手がどんな選手でも今の明君なら勝てるという風にも取れる。


階級差からあまり自分がスパーの相手を務める事は無いが、佐藤さん曰く、結構パンチがあるみたいな話をしていたのを思い出した。


「豪快なKO、期待してるよ明君。」


「え…KOですか?…わ、分かりました!」


自分なりの激励をしたつもりだったのだが、余計なプレッシャーを掛けてしまったかもしれない。


「いやいや、無理に打ち合いに行っちゃ駄目だよ?ちゃんと状況見てね?自分の距離守るんだよ?」


会長が訂正してくれたので、しれっと頷いておく。


「坊主…あんまり虐めんなよ…。」


自分としては可愛がっているつもりだが、難しいものだ。











九月五日、とうとうデビュー戦を控え早朝からジム前に集まっていた。


勿論俺が伴をする訳では無いが、それでも見送りくらいはしたい。


因みに佐藤さんは夜勤らしいのでまだ仕事中だろう。


「じゃあ遠宮君、行ってくるからね。」


早朝だと言うのに、眠気を全く見せない顔で及川さんが挨拶をしてくれた。


「はい、宜しくお願いします。まあ、やるのは明君ですけど。」


会長と牛山さんは、もう慣れた手つきで必要な物を車に詰め込んでいる。


「明、頑張ってくるのよ。明日はお母さんたちも見に行くからね。」


初めて会うが、明君のお母さんはとても優しそうな印象を受ける女性だ。


当の明君はというと、横を向いて恥ずかしそうにしている。


何だかそれが、逆に甘えている様に見えて微笑ましい。


とは言え、こういう所を人に見られたくない気持ちは分かる気がした。


まあ、幼い時分に母親と別れたので想像する事しか出来ないのだが。


お父さんの方も何だかそわそわと落ち着かない感じなので、何か声を掛けておいた方がいいかもしれないと思い歩み寄り、一言二言言葉を交わした。


「大丈夫ですよ菊池さん。明君かなり強くなってますから。もしかしたら一方的にKOしちゃうかもしれませんよ?」


声を掛けると、少し落ち着きを取り戻した様で表情が和らぐ。


「そ、そうですかね?そうならいいんですけどね。い、いや、遠宮さんがそう言うならきっと大丈夫なんでしょう。」


そこまで信頼を寄せられると、結果が逆になった時、非常に気まずい思いをしそうだと想像し思わず苦笑いが出てしまう。


そんなこんなで一行は車に乗り込み、一路決戦場所へと向かっていった。


見送るというのはどうにも慣れないものだ。












次の日、結果が気になってか気持ちが浮ついて仕事に身が入らない。


「どうしたの遠宮君?今日は何だかそわそわしてるわね。」


知らず知らずのうちに補充の手が止まっていた事に気付き、副店長に頭を下げると、


「いや別にいいけど。何かあったの?心配事?」


そんな言葉を返され、いつもは淡々とこなしているせいか、いらぬ心配をかけてしまったらしい。


「実は、後輩の子が今日デビュー戦でして。もうすぐ…あと一時間くらいでしょうか、試合開始なんですよ。」


副店長は、何故か少し珍しいものを見た様な表情を浮かべている。


「へぇ~、何だか意外ね。遠宮君って飄々としてるから、そういう事にはドライだと思ってたわ。意外に後輩思いなのね。」


仕事中は気持ちを切り替えているので、あまり地を出さない様に心掛けている。


恐らくそのせいで、人との関わりを避けていると認識されたのだろう。


まあ、苦手である事には違いないのだが。


「そっか、そっか、とにかくもうすぐ終わりだからそれまでしっかりね。」


軽く返答をした後、いつも通りの自分に切り替え商品を棚に詰めていった。

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