第二話 この日を噛み締めて
八月中旬の日曜日、毎度宜しく葵さんの部屋に転がり込む。
「一郎君、海行こっか。」
部屋に着くなり珍しくそんな事を言い出した彼女に付き合い、一路車を走らせる。
途中でビーチテントと水着を買い、ついでに何故か釣竿も買った。
「着いたね~。う~ん、いい天気だ~。まずはオイル塗ってくれる?一郎君。変なこと考えちゃ駄目だよ~。ふふふっ。」
晴天の下で見る彼女は、部屋で見るのとはまた違った魅力があり、思わず胸が高鳴った。
そんな動揺を隠しつつ、要望通り横になった彼女にいやらしい手つきで日焼け止めを塗っていく。
「あははっ、手付きめっちゃエロイっ、まったくもう…。」
口ではそう言いながらも楽しそうな表情をする彼女に、こちらも悪乗りしてしまう。
「…一郎君、そういうのはお外ではダメ。」
いけない所に手を伸ばしそうになって怒られてしまった。
気を取り直して、久しぶりの海に入ろうと思い気が付く。
久し振り所か、これが初めての海水浴だという事実に。
「どうしたの一郎君。…え?海初めてなの?うっそ~。」
驚くのも当然だ、本人でさえ驚いているのだから。
「なるほど、じゃあこれで海水浴童貞卒業だね。へへっ。」
そんな言葉があるのか甚だ疑問だが、可愛いのでどうでもいいだろう。
砂浜を二人で歩きながら、彼女は覗き込む様に視線を送る。
「それにしてもさ~、すれ違う女の人結構チラチラ見て来るね。やっぱり凄いもんね、筋肉。ほれほれ~。」
彼女は楽しそうに指で腹をつついてくるだが、とてもくすぐったい。
そんなふざけ合いに終始している時、彼女が不意に誰かを見て語った。
「今の人見た?すっごい胸。あれGカップくらいあるんじゃない?」
その言葉に反応し、ばっと振り返ると、
「嘘だよ一郎君…。いくらなんでも隣の娘にそれは失礼じゃないかな?」
煩悩に振り回される自分を恥じ、項垂れてしまった。
「本当にしょうがない子だな~、一郎君は。」
だが、慰められると直ぐに気を取り直す。
かき氷を買いビーチテントの中で食べながら、釣竿を買ってきた事を思い出した。
「ねえ一郎君、釣りするのは良いんだけど、餌と釣り針は?」
何を思ったか買ってきていたのは釣竿のみ、餌も釣り針もない。
馬鹿さ加減にまたもガックリ項垂れると、頭を撫でてくれた。
「よしよし、でも時間だし。そろそろ帰ろっか。」
地平線は赤く染まりかけており、良い雰囲気を醸し出していた。
一式を片付けると車に乗り込み、海を眺めながら帰路に着く。
(こういうのも悪くないな。この先もう一回くらいは葵さんと来れるかな?)
恐らく学校が終われば地元へ帰ってしまう彼女を思い、切ない感情がこみ上げた。
帰ってから夕飯の支度をするのは厳しい時刻だったので、夕食は帰りのドライブインで取る事にした。
「あ、次の試合十月十三日に決まったよ。また地元じゃなくて、向こうのホールでやるんだけどね。」
彼女はラーメンをちゅるちゅると啜りながらこちらに視線を向けると、
「そっか、その次はあの人とやるんだよね?あの怖いイケメン。」
怖いイケメン、彼をそんな風に呼ぶのは彼女くらいじゃないだろうか。
モニターで見る彼は、まさに好青年といった感じで悪い印象など受けよう筈もない。
「御子柴選手ね…。まあ、決定戦に勝てればだけど。そう、勝ったらあの人と…。」
自分の中の物差しとしては、相沢君の存在がある。
その相沢君が、中学時代二度当たってそのどちらも負けている相手。
高校からは階級が一つ違ったため当たらなかった様だが、もし当たっていたらどうなっていたのだろうか。
そんな事を考えていると、不安はとめどなく積み重なっていく。
「大丈夫だよ。遠宮選手は強いんだから。」
柔らかな笑みで彼女にそう言われると、本当に大丈夫な気がしてくる。
俺もありがとうという意味を込めて、微笑み返しておいた。
その次の週、目指せ日本チャンピオンと銘打たれた飲み会、もとい後援会の集まりが開かれた。
タイトルが目に見えてきたからだろうか、以前よりも格段に人数が増えた様な気がする。
そしていつもの様に酒を注ぎながら挨拶回りをしていると、会長から声を掛けられ、紹介したい人がいるからと案内された。
連れられてきた所で待っていたのは、六十代くらいだろうか、薄くなった頭頂部と深い皺が刻まれた職人然とした表情が印象的な老齢の男性だ。
「統一郎君、こちら【斎藤酒造】の社長さん。君のスポンサー第一号だよ。ほら、挨拶挨拶。」
一瞬意味が分からず首を傾げるが、直ぐに理解して両手で握手した。
「あ、有難う御座います!」
まさか今の時点でスポンサーがつくとは思っていなかった為、予想以上に動揺してしまった。
「この間の試合、感動したよ~。俺はな、備前直政のファンだったんだよ。だがらそれに打ち勝ったあんたには大いに期待させてもらうがらな。」
あの試合がこんな所に波及効果があるとは、世の中分からないものだ。
「まあ、勝ったっつう意味じゃ今のチャンピオンもそうだけどよ、心が震えだっちゅう意味では、断然この間の試合の方が良がったな。」
そんな風に言われると思わず嬉しくなり、顔がほころんでしまう。
「でも、そごまででっけえ支援はできねえかもしれねえな。悪いな、うぢもそごまで大っきな会社じゃねえがらよ…。」
どうやら、笑みを浮かべた俺の表情を実入りが増える事への喜びと勘違いしたのか、申し訳なさそうにする社長さん。
これは不味いと、俺も慌てて声を掛ける。
「そんな事ありませんよ。応援してくれるだけで有り難いです。」
お礼に加え、無理のない形で支援していただければ十分だとも伝えておく。
その言葉に満足したのか、軽く言葉を掛け合った後、他の人達と持ってきた自前の酒を楽しそうに酌み交わしている。
その姿を眺めていると、肩をポンッと叩かれた。
「斎藤酒造はそこまで大きな会社じゃないけど、これからそういった中小企業でスポンサーやってくれる所は増えると思うから。」
単にスポンサーと言っても、その関わり方は様々だ。
会長の話では、俺の場合スポンサーロゴをトランクスに入れ、その広告料として試合ごとに支払われるという形になるらしい。
会長はこんな事まで話を付けていたのかと、本当に驚かされる。
もしかしたら、近い将来ボクシングだけで生活できる日が来るかもしれない。
だが、それは理想的ではあるが、同時に危険性も孕む。
いつ収入がなくなるか分からないという可能性を常に抱えているのだから。
どちらがより自分にとって望ましいのか、これから考えていく事になりそうだ。
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