Genius side 1

「まあ、こんなものか…。」


初防衛戦を終えた数日後、手渡されたファイトマネーの明細を確認する。


マネジメント料や税金その他を差し引いて、約千五百万。


普通の日本チャンピオンクラスからすれば考えられない額だが、俺にとっては物足りない。


別にほしいものがある訳でも使う当てがある訳でもないが、ファイトマネーとはボクサーにとって格を表すものだ。


高ければ高いほど、人気も実力もあるという証明になる。


(まあいずれは、一試合で数十億稼いでやるさ。)


これは人生における夢ではない。


目標でもない。


確実に達成可能な将来設計だ。


「何だよ物足りなそうな顔しやがって。そんなに稼ぐ国内王者がいるかよ…。」


声を掛けてきたのは、専属トレーナーでもある白井。


一応周りは確認していたつもりだが、思案に耽っていたらしい。


「…そんな、自分の様な若輩にはもらいすぎなくらいですよ。物足りないなんて事は…」


俺の本性を見破っている様なのだが、こういうやり取りは恒例行事だ。


「はいはい…。お前の場合、テレビの出演料とかの方が高そうだけどな。」


トータル的な事を言えば、事実高い。


勿論番組や局によって差はあるのだが、同程度にはもらっている。


「女にもモテんだろうな~~。良いよな~。俺も結婚してえな~。」


こういう誰かと共に歩みたいという気持ちが、俺には全く理解出来ない。


どうせ足を引っ張られるだけなのだから。


「白井さんだって良い体してるんですから、アプローチすればすぐに見つかりますよ。」


顔の作りについては一切触れない事に努める。


「体って…お前なぁ。もう少し褒める所あるだろ、なぁ?…無い?」


こうしていると不思議な気分になる事がある。


もしかしたら、この感じこそが友達と呼ぶ関係に近いのかもしれない。


(何を馬鹿な事を…。こんなゴリラが唯一の友達とか、冗談きつい。)


心の中でそんな悪態をつくが、話していて楽しいのも事実。


「何だよ御子柴、俺の顔ジッと見て。…お前、まさか!?」


ゴリラはわざとらしい演技で自分を抱くような体勢を取り半身に構える。


「そういうのいいですから。そんな事してるからモテないんじゃないですか?」


その気色悪さに、蔑みの視線を浴びせ黙らせた。


「迎え来たみたいなので、俺帰りますね。じゃあ、明日も宜しくお願いします。」


ジムを一歩出ると、出待ちをしていた女達に囲まれ、振りまきたくもない笑顔を振りまきながら車に乗り込んだ。


「相変わらずの人気振りで御座いますね。」


そう語るのは藤堂家専属の運転手、真っ白になった髪が印象的な老紳士、四宮さん。


「まあね。毎日だから本当に疲れるよ。」


この人は俺が綾子さんに引き取られた時には既にいたので、取り繕っても意味はない。


「しかし、彼女達にもルールはあるみたいですよ?」


それは知っている。


俺のファン専用のコミュニティがあり、そこで協定の様なものが結ばれているのだ。


集まる人数であったり、細かなルールであったりをそこで調整しているらしい。


その規則の中に自宅まで押し掛ける事はNGという一文があり、こちらとしてはとても助かっていた。


ルールを守らないファンには制裁が加えられるとの噂もある。


何とも恐ろしい限りだ。


「まぁ、いないと困るのも事実だから、精々笑顔を振りまいとくよ。」


背もたれに体を預けたまま溜息をつく俺を眺め、四宮さんはフフッと笑う。


そんなゆったりとした空気の中、車は自宅へと進んでいった。











次の日、朝のロードワークも終わり、憩いの一時を過ごすため図書館を訪れる。


入って視線を巡らすと、何人かがこちらをチラチラと見ている中で、一際こちらの動向に熱い視線を向けている人物を発見した。


「どうも樫村さん。今日大学は?天下の帝大生がサボっちゃ駄目だよ?」


この曜日は取っている講義が無いという事実を知りながら揶揄う。


横からその姿を眺めると、今日は珍しく短めのスカートを穿いている様だ。


「ち、違うよ?きょ、今日は出る講義が無い日だから。」


もう何度も会っているのだが慣れる事は無いらしく、相変わらず顔の下半分を本で隠しながら返してくる。


ちらりとブックカバーの間から、本体のイラスト交じりの表紙が見えている。


どうやら依然読んでいた恋愛ものラノベとは別物らしい。


タイトルは『幼馴染のイケメンが私を好きすぎて困っています。』だ。


「今日も難しそうな本読んでるね。さすが帝大生は違うな~。」


表紙は経済関係の本になっている為、中身を知らないふりして揶揄ってみる。


「そ、そうかな?そ、そんな事ないと思うけど…。」


間違っても中が見えない様に隠しながら話すその仕草に、思わず笑いが吹き出しそうになるのを堪えた。


「この後、暇?良かったら、ジムに行く時間まで俺の部屋こない?」


どんな反応をするかと思い誘ってみたが、これ以上ないほど動揺している。


「ほら、ここも結構チラチラ見られるでしょ?落ち着いた所で樫村さんと過ごしたいと思ってさ。」


耳元に顔を近づけ、そっと囁く様に語り掛ける。


「…っ!!…ぁぅ…ひゃ、ひゃい。」


すると、あまりの動揺から簡単な返事すらもまともに出来なくなってしまった。














「じゃあ、お茶の準備してくるからそこに座っててね。」


広い空間の真ん中、置かれたソファに腰掛けた彼女に語り掛け、一度部屋を後にする。


彼女はまるで寺の住職の様な素晴らしい正座姿のままカクカクと頷いていた。


それなりに高級であろう和菓子と、いつもの茶葉を持ち部屋に戻る。


「お待たせ。ゴメンね、一人にさせちゃって。」


隣に座ると、手慣れた手付きで急須に茶葉を入れながら、必要以上に顔を近づけ語り掛ける。


「だ、大丈夫れす。ま、またこの様なお高いものを、わ、私なぞにっ…。」


こういう反応を眺めていると湧き上がる、この感情は何なのだろうか。


入れ終わった茶を差し出し、口を付けようとした彼女にもう一度顔を寄せ囁いた。


「鈴って良い匂いするね。ずっと嗅いでいたくなるよ。」


名前を呼び捨てにして耳の裏辺りに鼻を寄せると、仄かに香る甘い女の匂い。


嗅覚が鋭すぎる自分にはこれが何とも心地良い。


すると彼女は、茶碗に口が付くかどうかという所で完全にフリーズしてしまった。


小刻みに呼吸を繰り返し、その顔は猿もかくやというほど真っ赤。


(ちょっとやりすぎたか?このまま気絶したりしないだろうな…。)


少しやりすぎた事を反省するが、それでもやはり悪戯心が勝る。


「す~ず、ボーっとしてどうしたの?」


言いながら耳の上部を唇で挟む様に食む。


「ひゃっ!!…ひっひっふぅ~~っ、ふぅ~~っ。」


彼女は体をビクンと仰け反らせた後、妊婦の如き呼吸を繰り返す。


そんな事をしていると不意に自分の体の異変に気付いた。


(まさか…欲情しているのか?俺が?)


男性の象徴であるそれが雄々しく直立を始めていたのだ。


生理現象以外でここまでコントロール出来なかったこと等記憶にない為、意外な出来事に暫し言葉を失う。


「あ、あの…ゆ、裕也君は…私の事…、あの…」


ぼ~っとしていると、こちらを見上げながら何か問い掛けている様だ。


「ん?何?」


グッと顔を寄せ、瞳を見つめたまま聞き返す。


「なっ、何でもないれすっ。」


それ以降俯いて顔を上げようとしない彼女を眺めながら、以前燈子に言われた言葉を思い出していた。


『…貴方の初恋かもしれませんね。』


この感情が本当に恋愛のそれなのか、考えてみてもさっぱり分からなかった。


一つ確かな事があるとすれば、鈴が俺以外の男に抱かれるのはどうにも気に入らないという事。


だが、このくらいの感情が呼び起こされる女は、探せばその辺にいそうなのも事実。


(う~ん、分かんねえな。ま、そろそろ抱いておいてもいいかもしれないが、さて、どうするか。)


そんな事を考えながら、取り敢えず今日は弄り倒す事に決めた。


それから小一時間ほど、様々な悪戯行為を繰り返し、反応の面白さを十分に堪能して練習までの時間を潰した。











「お、お邪魔しまひたっ!」


門の前まで送り、真っ赤な顔の彼女と別れの挨拶を交わす。


帰宅していくその後ろ姿を眺めていると、歩き方が内股になっていた。


何故かとは敢えて問うまい。


「あら、あの子は帰ったのですか?挨拶しておきたかったのですけれど。」


行き違いになる形で燈子も帰ってきた様だ。


「ふふっ、お茶の片付けは私がしておきますね。」


燈子は含みのある表情で微笑み掛けてくる。


俺はどうにも気恥しさが沸き上がり、顔を逸らしてしまった。

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