第七話 慢心してますが何か?

時は二月十三日、チャンピオンカーニバルスーパーフェザー級タイトルマッチ。


現王者備前直正との試合だ。


試合開始まで後三十分程となり、メインイベンター用の個室で軽いミット打ちをこなしていた。


室内には白井や会長のほか、幾人かの同門の姿もある。


「いつも通りで行けばいいからな…って、お前にはいらん忠告か。」


白井が選手を落ち着ける為いつも言っている事を、ご多分に漏れず俺にも語るが、元より負けるとは思っていないため気楽なものだ。


「そんな事はありませんよ。初めてのタイトルマッチですから、俺にだって多少の緊張くらいはあるんですよ?」


事実、少しだけいつもよりも脈が速い気がする。


気がするだけだが。


「白々しい奴だな。苦戦するなんて微塵も思ってねえくせに。」


白井が疑わしそうに目を細める。


それを見て俺は軽く笑う。


ジムがこいつを俺に付けてくれた事は感謝している。


丁度良い感じの適当さというか、纏う雰囲気と醸し出す空気が実に自分の性格と会うのだ。


「ま、精々油断だけはしないようにな。ほら、行くぞ!」


入場の前に軽くステップを踏み調子を確かめる。


龍の刺繍が入った真っ白なガウンを纏い、気持ちを切り替える様に息を吐いた。


このガウンは、綾子さんの知り合いでもある有名デザイナーの作品らしい。


デビューする少し前に、俺を抱いた後でプレゼントとして渡されたものだ。


初戦で纏った時は、白井から生意気だのなんだのと揶揄われた。


そんな扱いを受ける事など滅多に無い為、新鮮な気持ちになったのを覚えている。


(うん。問題なさそうだな。さて、どういう展開が良いか。ま…やりながら考えるか。)


油断も慢心もあるだろう。


それでも負ける気は微塵もしなかった。












「只今より、日本スーパーフェザー級タイトルマッチ十回戦を………」


リングアナの声が掻き消えんばかりの黄色い声援を背に浴びながら、天井を仰ぎ見る。


「…バッティング、ローブローに気を付けて……」


現王者の顔に視線を向けると、中々に気合の入った表情。


(なるほど、それなりに強そうだな。これなら良い感じの流れを作れるかもしれないな。)


試合開始直前、マウスピースを銜えながら一応のアドバイスに耳を傾ける。


「まあ、好きにやればいい。お前が負ける所なんぞ想像できんしな。」


何を言われようが好きにやるつもりだったが、こんな風に言われると思わず苦笑が漏れてしまう。


その笑みが消えないうちにゴングが鳴り、現王者とグローブを合わせた。


(まずは間合い、それとタイミング。後は得意なコンビネーションも見ておきたいな。)


普通は事前にある程度試合の映像などで確認するものだが、俺は殆どその類の事をしていない。


己を高めれば誰が相手でも負ける事は無いと確信しているからだ。


(さて…さあ打ってこい。見せてくれよ。一度は世界に手を掛けた力を。)


誘いのリードブローを放つが、向こうは中々に慎重で退屈な展開になりかける。


(はぁ…仕方ねえな。こっちから行くか。)


塩試合など勘弁願いたい所。


そう思い強引に体をねじ込むと、至近距離での打ち合いを誘う。


(確か強打が売りとか白井が言ってた気もするし、流石に逃げないだろ?…なあ?)


挑発気味に三発、四発、五発と叩きこむ。


しかし、思っていた様な強打は返ってこず、その代わり何とも掴み所の無い動きで翻弄してくる。


(少し予定外だな。まあいい。取り敢えず今のうちにタイミングと軌道覚えとくか。)










第三ラウンドが終わり、こちらの優勢は間違いない展開。


正直言いたくはないが、拮抗した状態で判定まで行けば恐らくこちらの勝ちになるだろう。


そこは大人の事情というものがあるのだ。


勿論、そんなつまらない勝ちを拾う気は更々ないのだが。


「好きにやれとは言ったが、何もあそこまで相手に合わせる事はねえだろうによ…。」


見ている側としてはやはりハラハラするらしく、言外にアウトボクシングを推奨している。


だが、本人にしてみれば何も危機感を感じる様な事をしているつもりはない。


「打たれてもいないじゃないですか。大丈夫ですよ。多分。」


実際、パンチの軌道やタイミングは殆ど見切っており、よほど油断しない限り貰う事はないだろう。


「多分ってお前な…。タイトルマッチなんだぞ。頼むぜほんとによ…。」


その不安を払拭するべく軽く笑みを返しコーナーを後にした。


リング中央へと歩み出ようとした時、何かがその足を止める。


(…ん?)


対角線上から向かってくる王者の雰囲気が、明らかに先程までとは違ったのだ。


(へぇ~、本領発揮ってとこか。そう来なくちゃ盛り上がらないよな。)


あと一歩で打ち合いになるという距離で、触角の様に左をぶつけ合う。


そしていつもと同じく呼吸を捉え合わせていく。


(はい、ここ。)


ワンツーの二撃目を狙い撃ち、その機先を制す。


「…っ!?」


ぞわりと嫌な感覚が腕を伝い全身を駆ける。


(ク、クリンチ!?まさか最初からこれが狙い?いや、知ってるわけがない。偶然だ…。)


そう、恐らくは偶然。


流れが傾きかけたのを食い止めるべく取った、非常手段の様なものなのだろう。


だが、それでも俺には、俺にだけはそれがどんなパンチよりも有効なのだ。


しかも今回は何の心構えもない所での接触。


見る人が見れば分かる、それほどに動揺していた筈だ。


(くっそ!さっさと離れろっつうんだよっ!くそがっ!)


ある程度は克服したつもりだったが、それは飽くまでこちらに主導権がある場合であったらしい。


こんな風に向こうに主導権がある形でのクリンチは、かなりの忌避感が沸き上がってくる。


レフェリーに引き離されると、少し冷静さを取り戻し頭が冷えてきた。


(リズムがぐちゃぐちゃだ。まあ、でも大丈夫だろ。いきなりじゃなきゃ冷静に対応出来る筈だし。)


そしてこのラウンドは踏み込む気にはなれず、リズムを取り戻す事だけに終始した。








「どうした御子柴?まさか…どこか痛めたわけじゃないだろうな?」


急に消極的になった俺に違和感を感じた白井が問い掛ける。


「まさか、ピンピンしてますよ。ちょっとあのクリンチでリズム狂わされただけです。」


クリンチが弱点なんです、とは口が裂けても言えず、曖昧な答えに終始した。


そして第五ラウンドのゴングが鳴り、体の調子を確認しつつ前に出る。


(うん、問題なさそうだな。後はこれからどうするかだが…。)


今の所、会場の盛り上がりは満足のいくものではない。


ならばやはり、派手な打ち合いが必要になってくるだろう。


相手のリードブローを叩き落とすと、踏み込んでボディからのアッパー。


常にクリンチを念頭に置き、いつやられてもいい気構えだけは整えておく。


相手もそれを迎え打ち、先程とは違い強打者の名誉挽回とばかりに打ち込んでくる。


(おお、結構パンチあるな。ガードするより受け流す方が良さそうだなこれは。)


自分で言うのもなんだが、こうして至近距離で打ち合いをしているにも関わらず決定打をもらわない所に、両者のレベルの高さが伺えるだろう。


その中にあっても、向き合っている当人同士にしか分からない優劣はつく。


まるで無傷と、殆ど無傷は雲泥の差があるのだ。


(もうある程度見切ったな。いつでも仕留められそうだが…さてどうするか。番組の枠は確か九十分だったか…もう少し引き延ばすか。)

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