第五話 弱みを見せるは弱者の有り様
「御子柴、大丈夫だと思うが気負うなよ。」
そう語り掛けてくるのは、俺専属と言ってもいいトレーナーの白井だ。
見た目を一言で言うと、ゴリラだ。
トレーナーとしては比較的若く、まだ三十七歳になったばかりらしい。
その脇には会長、加え竹内というトレーナーの三人がこちらの陣営。
正直いらない心配だと思いながらも返事だけは返しておく。
「分かってますよ。まあ、プロのリングは初めてなので勉強させてもらいましょう。」
第一ラウンドのゴングが鳴ると、グローブを合わせた位置でそのまま重心を下げ、心の中で自分に課した課題を確認しつつ組み立てを考えていく。
(インファイトで倒す。これは決定事項だ。それと、やはりクリンチには慣れておくべきだな。)
あのべたついた肌が触れる感覚への忌避間は、早めに克服しておかなくては致命的な弱点になりかねない。
そして視線を向けた先には、注文通りのインファイター。
マッチメイクをする際、相手の条件について会長達に頼んでおいた事がある。
一つ、それなりの実力がある事。
二つ、近距離の打ち合いを得意とするタイプである事。
そして、出来れば無敗の選手が良い。
デビュー前の選手が生意気な事をと思っただろうが、弱点克服と能力の上積みにはどうしても必要な条件だった。
アマチュア時代は基本的に勝利する事のみを重要視してきたが、プロになればそうはいかず、どんなに大手のジムであろうが人気はあるに越した事はない。
しかも俺の場合、日本人としては恐らく前人未到であり、これからも行き着く者がいないであろう場所を目指しているのだ。
遠征などかったるい事はしたくないので、タイトルマッチは出来ればこちらでやりたい。
まあ、そう上手くいかない事は分かっているが、出来るだけの事はするべきだろう。
「フッ!…シュッ!」
あまり経験の無い距離での打ち合いであるが、不思議なほど違和感は感じない。
寧ろ距離が近い分、相手の呼吸が更に分かりやすくなり、まるで接待されているかと疑いたくなるほど動きを読むのが容易だ。
相手の呼吸が分かるというのは正直な所、言葉で説明しろと言われても難しい。
特に意識する事も無く最初から出来ていたのだから、自分にとっては出来て当たり前の事。
何故立って歩けるのかと聞かれてもみんな困ってしまうだろう、それと同じだ。
当然、試合は一方的なものとなった。
だが相手をロープ際に追い込んで、止めを刺さずその瞬間を待つ。
そして、相手がしがみついてくるのを見て取ると、その場で受け止めた。
「くっ!!…このっ!!」
クリンチをされ、その汗ばんだ肌が触れた瞬間、全身が総毛立った。
覚悟していたにも関わらず思わず頭に血が昇りかけるが、理性を総動員してそれを抑え込む。
(落ち着け…深呼吸しろ。……よし、大丈夫。)
身を任せ、レフェリーが引き剥がすまでじっと耐え続ける。
「ブレイク!」
ふぅっと息を吐き、一応の課題をクリア出来た事に安堵した。
「…シッ!シィ!」
もう長引かせる意味もないと、カウンターの左アッパーから右ショートフック。
「御子柴、上出来だ。だがインファイトだけで倒すなんてのは一言も聞いてなかったぞ。本来のスタイルでもないのにここまでやれるのは流石だけどな…。」
白井の皮肉交じりの誉め言葉を聞き流し、歓声に応えながらリングを降りる。
まだまだ忌避感は拭えそうもないが、続けて行けばそのうち慣れるだろう。
いや、慣れなければならないのだ。
誰かに知られる前に、弱点は消しておかなくてはならない。
一番いいのは陣営に話して協力を取り付ける事だが、弱みを晒すのはどうしても出来ない。
恐らく、心の中では誰も信頼していないのだろう。
「御子柴君、おめでとうございます。」
女子アナウンサーが数字の羅列された掲示板の前で俺にマイクを向けている。
三月某日、帝国大学合格発表日、綾子さんの差し金でマスメディア関係の何人かが待ち伏せていたらしい。
「有り難うございます。いやぁ、正直自信無かったんですけどね。本当に…良かったです。」
少し目に涙を浮かべながら、満面の笑みで応える。
勿論、演技だ。
どうせ通うつもりは毛頭ないのだからどうでもいい。
批判は出るだろうが、熟考した結果だと心痛な面持ちで語れば俺のファン達が擁護に回ってくれるだろうから、自然とその火も消えていく筈。
大体、通う気もないのに等とほざくなら、本気でもない俺に負ける程度のそいつが悪い。
自分の力の無さ、努力の足りなさをを棚に上げ批判するなど、負け犬のする事だ。
一々気になどしていられるか。
その後SNS上に辞退の旨を投稿すると、予想通りの流れになり思わず笑いが込み上げてしまう。
だが、その事実を一番残念そうに語っていたのは身近な人物だった。
「そ、そうなんだ…。御子柴君、帝大通わないんだね…。でも、仕方ないよね。御子柴君忙しいし、ぼ、ボクシングもやらなきゃだもんね…。」
正直驚いた。
この
俄然興味が湧いた。
殆どの者は、憧れは憧れのまま終わる。
眺めるだけで、身を削る様な努力をしてまで手を伸ばす事はしない。
彼女の成績が元々良い事は知っていたが、それでも最高峰の大学に手が届く訳も無く、そのままでは合格は絶対不可能だった筈だ。
努力をしたのだ、それも生半可ではない、まさに全てを捧げるほどの努力を。
(面白いな。傍に置いておきたい女だ。)
とは言え、一緒にいる所を大勢に見られれば色々と面倒臭い事になるだろう。
ならばと思案して結論を出す。
「樫村さん、俺の部屋来ない?…嫌?」
そう問い掛けられた彼女は、茹蛸の様に真っ赤になった顔で、金魚よろしく口をパクパクとして言葉にならない言葉を紡いでいる。
「へ?…あっ、私?私を…部屋に?え?何で?」
相変わらず見ているだけで面白いが、このままでは埒が明かなそうだ。
「ほら、行こう。大丈夫だよ、変な事しないから。」
一応念には念を入れて、一緒に歩き向かうのではなく、俺が先に帰り彼女に後から尋ねさせる形にした。
だが、いつまで経ってもやってこないので門の前を覗くと、右に左にうろうろする不審者の姿。
「何やってんの。ほら、入りなよ。」
手を引き、半ば無理矢理の形で屋敷に連れ込むと、
「お、お邪魔します…。…あ…どうも。…か、樫村と申します。」
すれ違うお手伝いさん一人一人に対して、丁寧に頭を下げ挨拶をするため中々進まない。
「いいからいいから。こっちだよ。」
頭を下げたままの彼女の腰に手を回し促しながら縁側に出ると、庭を見つめたままぼーっとしてまたもフリーズしてしまった。
「よいしょっと。」
いつまでも動かないので、所謂お暇様抱っこと呼ばれる体勢に移行する。
「ひゃっ!こ、これはっ!まさかっ!わ、私がお姫様抱っこされてる!?」
何をするにも反応が面白いので、こちらもついつい悪乗りしてしまう。
何やらぶつぶつと呟いているが、気にせずそのまま奥まで進み、自室へと向かった。
「適当に座って。」
言いながら彼女に視線をやると、きょろきょろと部屋を見渡しながらゆっくりとテーブル脇のソファに腰を下ろしていた。
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