第四話 完璧な者などいない

高校に進学すると、綾子さんがモデルの仕事をやたら持って来る様になった。


「あんたプロになるんだろ?だったら今のうちに価値を上げておきな。」


そう言って俺をあちらこちらへと引っ張り回し、テレビ局のお偉いさんとも面通しさせられた。


そんなある日、春の大会が迫っておりこのままでは支障が出る事を告げると、


「大会?インターハイだけで充分だろ。それより後の為に顔を売る方が大事さ。それに五冠とか六冠とか、もういるんだろ?二番煎じはつまらないじゃないか。」


確かにそうだと納得したが、それだと感覚が鈍るのが少し怖いと伝える。


「その辺のジムでスパーリングでもすりゃいいさね。話つけといてやるよ。」


そのすぐ後、こちらの不満を先回りする様に、敷地内に仮設のトレーニング室も出来上がった。














モデル業もそれなりの数をこなし街を歩いていると、頻繁に声を掛けられるようになってきた。


そんな風に人の視線に晒される時間が多くなっていくと。必然的にそれを避ける行動を取りたくもなる。


そういう時向かうのが、自宅から直ぐの場所にある公立図書館だ。


静かで世の喧騒を忘れる一時を過ごせる為、今の一番のお気に入りといってもいい。


中に入ると知った顔を見かけたので、いつもの笑顔を張り付けて声を掛ける。


「やあ樫村さん、今日もここにいるんだ。本当に本が好きなんだね。」


この少女はいつも同じ席に座っているので見つけやすい。


「え?あ、うん…。御子柴君もここよく来るんだね。」


この地味女は樫村鈴かしむらすずと言い、黒縁眼鏡にセミロングの黒髪、顔立ちは整っているのに何故か不思議なほど地味だ。


因みに住んでいる場所が綾子さんの豪邸の隣でもある。


あの辺りの家の中では比較的こじんまりとした大きさではあるが、坪単価が恐ろしく高い為、それなりの資産を持った家庭なのだろう。


彼女と初めて会ったのはつい最近、高校で同じクラスになってからの事。


厳密にいえば学校では会っていても殆ど記憶に残らず名前すら知らなかったが、それでも何となく見覚えがあったのだろう、俺から声を掛けたのだ。


勿論学校で話し掛ける事等はしない。


目立たないこの少女が俺と親しげに話していれば、良からぬ感情を持つ者も出て来る事は容易に想像出来る。


女の恐ろしさを一番知っているのは、何を隠そうこの俺自身であるのだから。


この場所で樫村と話すのは実は最近の秘かな楽しみでもある。


惚れているとかそういう意味ではなく、単純に反応が面白い。


今も向かいに座り、本を読む振りをしながら俺をチラチラと盗み見ている。


そしてこちらに視線を向けた瞬間目を合わせると、顔が茹蛸の様な色に変わり挙動不審になった。


「今、何読んでるの?」


問い掛けると、彼女は本体とは違うカバーの掛かったそれを、恥ずかしそうに胸に押し付ける。


「え?あ、うんと、い、今はね、その…恋愛物…かな?」


本当は何を読んでいるのか知っているのだが、反応が面白いので直接聞いてみた。


カバーは純文学作品になっているが、隙間から見える中身は所謂ライトノベルというやつだ。


しかもタイトルで検索すると、女子高生の主人公が隣に住む幼馴染とすれ違いがどうこうというストーリー。


頭の中でどんな妄想をしているのかと考えただけで吹き出しそうになる。


本当に面白い女だ。


「じゃあ、俺はそろそろ行くよ。樫村さん、またここで会おう。」


そう席を立ちながら声を掛けると、顔の半分を本で隠しながら挨拶を返してくる。


「う、うん。こ、ここに座ってるから、私。み、見かけたらまた声掛けて。じゃあね。」


この少女といるのが楽しい理由は面白い以外にもう一つある。


少し変態っぽいと思うかもしれないが、良い匂いがするのだ。


人よりも五感が鋭い為か、強い香水の匂いなどはどうにも好きになれない。


俺にとっての強いという基準は、人が普通と定義する程度のものでもそれに当たる。


その点彼女の匂いは、普通なら感じる事が出来ないほど仄かな石鹸の香り。


気を使う必要がないというのは非常に楽な為、自然心地良いと思ってしまうのだ。


樫村は相変わらず俺の背にチラチラと視線を送っており、その真っ赤になった顔を見て吹き出しそうになりながら、俺はその空間を後にした。

























高校最後のインターハイも有終の美で飾ったその年、本格的にプロ転向の準備に掛かった。


いつもと同じ黒塗りの高級車に乗り向かうのは、契約する予定の王拳ジムだ。


綾子さんも一緒というのは保護者同伴みたいで少し気恥しさがあるが、契約金などの交渉は流石に俺では役不足といった所なので仕方がない。


因みに俺のマネージャーを務めているのは綾子さんと燈子の二人。


その交渉は国内最大手のジムにしては簡素な部屋で執り行われた。


「少し安いんじゃないかい会長?この子が一体どれだけの益を生むのか……分からない程ぼんくらでもないだろう?」


こういう交渉事は素人が口を挟むと邪魔以外の何物でもない。


「はは…藤堂さんには敵わないな…。分かりました。では、これでは?」


ジムのマネージャーらしき人が差し出してきた金額に、綾子さんは満足気に頷く。


「まあ、このくらいが妥当な所かね。…これからよろしく頼むよ、会長さん。」


差し出してきた手を俺も握るとジムを後にし、ようやく一息着く事が出来た。


「休んでいる暇は無いよ。次はスポンサーの所に行くんだからね。」


うんざりするが、これも仕方の無い事だと割り切るしかない。


「ところで、勉強の方は順調なんだろうね?」


ただでさえ忙しいというのに、この人は更にきつい課題を突き付けてくる。


我が国最高峰の大学である帝大、つまり帝国大学へ現役合格しろとの仰せだ。


「別に通えって言ってるんじゃないんだよ?合格した後は辞退すればいい。前にも言ったけど、世間は馬鹿に冷たいよ?分かりやすいステータスを持っておきな。」


簡単に言うが、減量をしながら練習、勉強、センター試験、そして入試。


他人が見たらこいつは何をしたいんだと思うに違いない。


「出来ないのかい?この程度の事が?」


見え透いた挑発だが、この人に言われるとやってやろうじゃないかと反逆の意志が沸いてくる。


「分かったよ。そうする事で色々上手く運ぶのなら乗るよ。」


その返答を、綾子さんはいつもと同じく含みのある笑みを浮かべ聞いていた。











季節は十二月、デビューを控え部の後輩の勧めもあり、同階級の新人王戦をチェックしていた。


「新人王は遠宮?知らないな。まあ、この程度ならどうとでもなるか。」


印象としては平凡、特にこれと言って見るべき所は無い。


「まあ、所詮新人王だしな。こんなもんだろう。」


とは言え、自分のボクシングにも課題というものはある。


それを克服する為、転向後しばらくはインファイトだけでやっていくつもりだ。


俺の欠点というのは、やはり潔癖な所に由来するクリンチへの忌避感だろう。


どうしても、あの汗とワセリンでべたついた体にしがみ付かれると、頭に血が上ってしまうのだ。


それを克服するにはやはり慣れが必要。


そしてプライドからか、誰にもばれたくないという思いも強い。


例え下らないと言われようとも、これは譲れない一線だ。


人に弱みを見せる事等あってはならないのだから。













「しっかし、そんなに減量ってしなきゃならないもんなのかい?痩せっぽちになっちゃったじゃないか。」


そう思うならこのバイトをそろそろ辞めさせてほしいものだが、言葉とは裏腹に別段気にする事もなく、綾子さんは今日も俺を寝室に呼びつけていた。


「先の事を考えるとこの階級でやりたいんだよ。目標は五階級制覇だからな。」


俺の体格では頑張ってもウエルター若しくはその一つ上がいい所だろう。


そこから逆算していくとどうしてもここまで落とさざるを得ないのだ。


「ふ~ん、捕らぬ狸の皮算用にならなければいいけどね。口だけの男ほどカッコ悪いものは無いよ。」


綾子さんは相変わらずの値踏みする視線でこちらの返答を伺う。


このバイトは基本的に毎週日曜日に行われるのだが、報酬は毎回自分で決めろと言われており、今回もそれに倣い財布から抜き取った。


「ま、このくらいが妥当か。そろそろこの財布に入ってるくらいじゃ足りなくなるかもな。」


その言葉を聞いた綾子さんは、愉快そうに笑いながら鼻を鳴らしている。


「ふふっ、局が全面的にバックアップしてくれるらしいからね。躓いたら恥ずかしいよ?裕也。」


「はっ、国内レベルで躓くかよ。まあ、一応肝に銘じておくけどな。」


もう良い時間の為、襲ってくる眠気を噛み殺しながら全裸のまま浴室へと向かった。

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