第三話 人生は敵がいてこそ

毎週の恒例になりつつある営みは、俺が中学二年に上がってからも続いていた。


「裕也、勝ち続ける為に必要な事って何だと思う?」


その日俺を抱いた後、綾子さんは急にそんな事を問い掛けてきた。


頭を巡らせるが、当たり前の答えしか浮かばず窮していると、返答を待たずその口を開く。


「私はね、感覚だと思うんだよ。勝利が当たり前に身に付いている感覚。この空気は不味いっていう事が分かる感覚。第六感ともいうね。」


随分と抽象的な答えで、言わんとしている事が上手く伝わってこない。


そもそも何に対しての問い掛けなのかも分からない為、ボクシングについてのものだと仮定した。


「練習とか、自分や相手を知るとかじゃなくて?」


そんな当たり前の言葉しか浮かばない自分に、何故か敗北感を抱きつつ返す。


「それはやって当たり前の事だろう?そうじゃないのかい?私が言っているのは、その中からどういう奴が頭一つ抜け出すのかって事さ。」


勝つ事が当たり前の感覚というのが、今の自分にはよく分からない。


口調から、驕り高ぶりとは少し違った意味合いだというのは分かるが。


「取り敢えずは勝ちに徹する事だね。特に不安定なガキのうちは。敗北から学ぶものは多いって言うけど、そんなのは敗者が自分を納得させる為の方便さ。勝利から得られるものの方が多いに決まってるんだよ。」


綾子さんは欲望を吐き出した後、よくこういった教訓めいた事を枕詞で囁く。


「まあ、簡単に言うなら普通の事をしろって事さね。」


俺が知る人間の中で最も普通から縁遠いこの人が言っても説得力が無い。


その考えは知らず知らずのうちに言葉として漏れ出てしまっていた様だ。


「ははっ、私はガキの頃から欲望に正直さ。その自分を今までずっと通してる。不変を通してる。どうだい?不通ふつうだろ?」


下らない言葉遊びだと思いながらも、この人が言うと妙な説得力がある。


「ああそれと、勉強は一番になっておきな。馬鹿の言葉は誰も聞いちゃくれないよ?」


今でもそれなりには良い成績を取れているのだが、現状では全く足りないという事だろう。


「…ああ、分かったよ。」


そして今日もそれを聞きながら意識は深い眠りに落ちていった。















「お疲れ様でした。」


「は~い、お疲れ~。」


綾子さんからの紹介で、最近は若年層向けのファッション誌のモデルを引き受ける事が多くなってきた。


俺としては良い小遣い稼ぎになるので有難い限りだが、クラスでいちいち騒がれるのは鬱陶しくもある。


表紙を務めた雑誌が発売される度に、決まって席には女生徒が群がってくるのだ。


「御子柴君!見たよこれっ。すっごいカッコ良かった!」


「私も買ったよ?そこらのアイドルより全然上っ!もうさいっこうっ!」


鬱陶しく思いつつも、邪険に扱う事等出来る訳も無くいつもの笑顔を顔に張り付け語る。


「有り難う。アイドルよりってのは言い過ぎだけど、本当に嬉しいよ。ははっ。」


少しはにかんだ仕草をするのがコツだ。


こうする事で純粋さや謙虚さを演出でき、更に好感度は上がる。


俺にも普通に性欲はある為、これから先若い体で発散させたい時もある筈だ。


そういう時、彼女達はとても有難い存在になるだろう。


本当に、とても良い人達だ。


このよく耳にする『良い人』とは何だろうかと、思った事はないだろうか。


人の内側など知りようもないのに、ならば何をもって良い人とそうでない人を分けるのかと。


線引きは簡単だ。


そう見えるか見えないか、或いは自分に実害がある者かどうか、そんなとこだろう。


そう思い至ってからは、人付き合いがとても楽になった。


人の内面など気にする事無く、目で見えるものだけを見ればいいのだから。











入学してそれなりの期間が経った頃、少しずつ綾子さんの言っていた事を理解出来る様になっていた。


敵のいる生活の方が楽しいというあれだ。


これだけ目立てば当然同性からは妬まれる。


そうなれば必然的に害を及ぼそうという者もそれなりには出てくるものだ。


その日学校に行くと、ある筈の場所に上履きが無い。


誰が見ているか分からないので少し悲しそうな表情を作り、反して心の中は愉悦で満たされていく。


随分古典的な事をするものだが、仕方のない理由も理解出来る。


実力行使しようにも敵わない、それ以外でも敵わないとくれば陰険にならざるをえないのだろう。


これ見よがしに職員室でスリッパを借り教室へ入ると、


「御子柴君、おはよっ!あれ?…何でスリッパなの?」


女子が数人寄ってきて心配そうに聞いてくる。


「あはは…、何でもないよ…。ちょっと忘れてきちゃっただけだから…。」


少し影を帯びた表情を作ると、これだけで良い人である彼女達は察してくれるのだ。


「…本当に?嘘だよね?隠されたんでしょ?私、許せないっ!」


「そう言えば昨日の放課後あそこに集まってる男子いたよ?」


そうすれば、俺が何も言わずとも彼女達が場を盛り上げてくれる。


力づくで何とかしようと思えば出来るが、それではつまらない。


「ちょっと、あんたでしょ!早く返しなさいよ!」「し、知らねえって!」


それなりに場が温まった所で、俺が仲裁に入る。


「もういいって、大丈夫だから。それに決めつけは良くないよ?本当に知らないかもしれないし。」


嘘も方便、誰がやったかなど全て把握している。


噛み付いていた女生徒は、納得していないと言わんばかりに男子生徒を睨みつけながら引き下がっていった。


群れた女は恐ろしい。


だがこうやって俺が良い人であればあるほど彼女達は結束を強め、標的を追い詰めてくれる。


直接的に手を下すよりも間接的に追い詰める楽しさに目覚めてからは、学校という場所がとても楽しい遊び場になった。









「おい、御子柴!あんま調子乗んなよっ!?」


偶にはこの様に直接噛み付いてくる者もいるが、人目を避けて噛み付いてくるので、こちらとしては有難い限り。


この程度の雑魚、何人いようが大して問題にはならない。


「どうしてこんな事っ!やめようっ、俺に喧嘩する理由ないよ!?」


愉悦で満たされた感情を隠しつつ、口では平和主義を語る。


勿論殴るのは腹だけに留めておく事も忘れない。


例え顔を殴ったとしても一人に負けたという恥辱を公にはしないと思うが、そこは念の為。


徹底的にはやらず、復讐の意思が消えない程度に留めることも重要だ。


潰してしまっては遊び相手がいなくなってしまうのだから。


「はは、敵がいる人生は面白い。」


あの人の言葉が漸く理解出来てきた。





















「では、私はこれで…。」


まるで一仕事終えた様な静かな声で、その女性は俺の部屋を後にする。


この人は綾子さんの秘書をしている女性で、偶にこうして肉体関係を持つに至った間柄。


年齢は二十六歳、胸まで伸びた真っ直ぐで艶やかな黒髪と、切れのある瞳が印象的な美人だ。


スタイルも素晴らしく、正に非の打ち所無きという言葉がしっくりくる。


何故こんな関係に至っているかと言われれば、それは少し前に遡る。







ある日、一度綾子さんに忠告を受けた事があった。


「裕也、女に手を出すなら気を付けな。それで身を亡ぼす男の多い事、多い事。」


うんざりとした顔で語るその一言で、クラスの女に手を出そうとしていた俺の気が完全に削がれた。


そして若い性欲を持て余し悶々としていた頃、彼女を紹介されたのだ。


「この女は高野燈子たかのとうこ。何度か見てるだろ?私の秘書さ。本人了承済みだから存分に発散させな。」


人格に問題があったとしても、俺は外道に堕ちるつもりはない。


なので、二人きりになってから一応の確認はしておいた。


「高野さんでしたっけ。綾子さんに何か弱みでも握られてるんですか?」


彼女は俺の問い掛けに対して少し笑顔をこぼした後、


「何もありませんよ。私は面食いで、加えて若い男性が大好きですのでお気になさらず。」


その表情からは何の憂いも感じられず、言葉が真実である事を物語っている。


本人が良いというのならこちらとしては有難い限りだ。


それからというもの、頻繁に肉体関係を持つに至った。


彼女は様々な事に精通しており、俺のサインをデザインしたのも彼女だったりする。


公私ともに最もお世話になっている女性といっても過言ではないだろう。





そんな生活を送る中ボクシングの方はというと、中学三年間はとにかく勝つ事だけに拘った。


足を使い、鋭い五感と身体能力を駆使し自分の距離を守り、徹底的に相手の距離を潰す。


結果、中学三年間で黒星はゼロ。


出場したすべての大会で優勝し、一部では神童の如き扱いを受けた。


「おいっ!次は負けねえからな!」


いつかの全国大会で、頭を金髪に染め上げた相手がそう告げてきた事がある。


(能力は中々だが、勝つ為にやるべき事を為していない。宝の持ち腐れだよお前は…。)


身体能力の高さは見て取れたが、如何せん試合の作り方が雑、故にそれほど難しい相手だとは感じなかった。


事実、その相手とはその後も当たったが、どちらも俺の完勝と言っていい内容。


それでもジュニア時代に相対した敵としては、最上位に当たるのだろうが。

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