閑話 託すもの 後編
一方的な試合になるかと思われたが、やはりあの男の息子。
粘り強い。
その見た目とは裏腹に執念にも近い意志を感じた。
足を引きずりながらもその左は鋭く、元々腫れやすかった俺の瞼はいつもの様相を見せ始める。
(そうだ。それでいい。上を狙うならこのくらいの苦しさは何度も経験する…。)
「直政、動くなよ。」
目の前では、腫れ上がった瞼を何とかしようと藻掻く真田トレーナー。
腫れやすさというのは元々の体質の問題もある。
運が悪い事に、俺は存外腫れやすい質だった。
それがなければと思う事も多々あったが、こればかりは言っても仕方のない事だ。
「そのくらいで良いよ、おっちゃん。ありがとな。」
恐らく、俺のこれはどんなに腕のいいセコンドでも簡単ではないだろう。
視界を開いても、次のラウンドにはまた塞がってしまうのだから。
「分かった。でも俺にも意地がある。やるだけやらせてくれ。」
セコンドアウトのコールが響いても中々リングから下りない陣営を見て、再度警告のセコンドアウトがコールされる。
それを聞き、おっちゃんは悔しそうに下りて行った。
(本当、恵まれてるよ俺は。こんなにも支えてくれる人達がいるんだからな。)
試合は第五ラウンドに入り、相手は執拗に腫れた瞼を狙ってきた。
(そうだ、それでいい。勝つ為に必要な事は全部やれ…。しっかし、良い顔になってきたじゃねえか…。)
その表情は目を吊り上げ、痛みと苦しみに耐えるべく歯を食いしばる戦う男の顔だった。
「早く座れ。」
おっちゃんは俺を急かすと、早速腫れを何とかしようといじり始めた。
「おっちゃん、多分もう決着つくから、その辺で…」
「黙れ、言ったろ、ただの意地だ。」
思えば、我が儘なガキだった自分をここまで引っ張ってきてくれた。
何度も反発し、何度も衝突し、何度も喜びを分かち合った。
下手をすれば親よりも親密な間柄かもしれない。
一度目の世界戦も二度目も、こうやって必死で支えてくれていた。
(だが、俺は応えてやる事が出来なかった…。)
「セコンドアウト。」
ならば見せてやろうと心に炎が灯る。
「おっちゃん、俺も見せるわ。意地。」
そう言った後、ゆっくりと前に進み出る。
(ボディだな。あの余裕の無さ。一発でかいの入れれば落ちる!)
もう両者の間に距離はなく、手を伸ばせば届くのは明らか。
相打ちでもよかった。
余裕の無さで言えば、恐らく向こうが上。
「…ヂィッ!」
次は一切考えず、思い切り残った力で左をボディへと叩きつける。
だが、同時に遠宮の放った拳も届いており、それはまさかの意表を突くジャブ。
その判断は正解だったのだろう。
こちらのボディブローが当たろうかという数舜先、そのジャブが俺の顎先を捉え、ボディを強烈に抉る筈のインパクトの瞬間、僅かに力が逃げた。
それが決定打にならなかった理由だろう。
そして遠宮から放たれるそれを、体の自由が奪われた俺の眼球が捉えていた。
正に強打、顔面を抉られる様な衝撃が襲い、為す術無く崩れ落ちる。
一瞬意識が飛んだが、このまま終われる筈も無し。
(意地…見せるって…、言った…からな…。)
音も景色も歪む中、何とか立ち上がる。
レフェリーは顔を覗き込み、慎重に判断を下そうとしているようだ。
「何本だ?…これは?…よし。…ボックス!」
何度も指を立てて見せレフェリーが意識の確認をした後、最後の時間を与えてくれた。
どうやら意地で立っているのはこちらだけではないらしく、泥の中で藻掻く様な展開が続く。
そんな中、抱き合う様に縺れ合った直後、ゴングが響いた。
「おっちゃん…、…良い試合か?」
ふと意識する事無く、そんな言葉が口を突いて出てしまっていた。
「ああっ、ああっ、最高だ!お前のベストバウトだよ!だから勝ってこい!」
昔の自分と、今の自分、どちらが強いかと言われれば昔の自分だろう。
それでも俺は、今の自分が誇らしい。
進み出る。
恐らく自分のプロボクサーとしての最後の時間となるだろう。
あの男の息子と目が合うと、自然とグローブを合わせていた。
(あの時、下で見上げるだけだった小僧が…大きくなったもんだな…。)
その場でファイティングポーズを取ると、僅かな静寂が満ちた瞬間、細かい駆け引きなど無しに、渾身の力で左を伸ばした。
しかしそれは標的を捉える事無く、水に流される様に相手の顔面から逸れていく。
柔らかな感触だった。
例えるなら、そっと添えるだけの柔の技。
自らの渾身を流されると、自分のボクサーとしての最期を告げる拳が眼前を覆う。
せめてもの抵抗として首でいなす事を試みるが、焼け石に水。
チリチリと微かに燻っていた心の中の残り火が、役目を終え静かに白煙を上げると、そのまま意識は暗い底へと沈んでいった。
「直政、大丈夫か?」
覗き込むおっちゃんに、手で合図をすると同時に起き上がる。
視界には、年相応とは呼べない童顔も覗いていた。
その心配そうな顔に思わず笑みが零した後、語るべき言葉を語る。
「おお、負けた負けた。お前やっぱり強ええな。……その内今日のこと自慢させてくれ、な?」
あの時投げかけられた言葉を、その息子に投げ返す。
これは俺の自己満足、向こうの意思など関係なく、バトンは渡し終えた。
「こちらの方こそです。この試合、一生の自慢になります。」
折角渡したものを返されちゃかなわんと苦笑する。
「俺程度で自慢されちゃたまらんよ。ようやく肩の荷が下りたってのによ。」
そうして話している横で、インタビュアーが所在なさげにしていた。
「直政、ダメージ酷いならすぐに医務室行くか?」
「いやぁ、最後の晴れ舞台なんでもう少し居させてくださいよ。」
俺が冗談交じりにそう言うと、おっちゃんも頷いて下がる。
「それでは、本日で引退となる、炎の漢、備前直正選手です!」
負けておいてインタビューを受けるのは不思議な気持ちだが、盛り上がっているのでそれは気にするべきではないだろう。
「すいません、負けちゃって。有終の美、飾りたかったんですけどね…。」
このリングに立つのもこれで最後かと、噛みしめながら丁寧に言葉を紡いだつもりだ。
もし俺の様なちんけな男に憧れて、同じ場所を目指す者が現れても恥ずかしくないように。
赤コーナー側控室は、思いのほか良い雰囲気に包まれていた。
「お疲れ様でした!」
同門の選手達が、殆ど叫びに近い口調で労ってくれる。
俺もそれに応えると、会長達に向き直った。
「会長、真田トレーナー、皆、今まで、有難う御座いましたっ!」
会長もおっちゃんも上を向きながら涙を堪えているようだ。
そして、おもむろに会長が口を開く。
「これからお前がどんな道を進むとしても、何かあったら言ってこい。必ず助けになってやるからな。」
この言葉には、今度は俺が耐えきれず涙をこぼす。
すると、みんなの視線が入り口に注がれているのに気付き、俺も振り向くと、
「お父さん…ぐずっ…お疲れ様でした…ひっくっ。」
香が花束を持って立っていた。
「あなた、良い試合でしたよ。この子が大きかったらさぞかし憧れたでしょうね。」
妻がそんな事を語りながら、抱いている拳一の頭を撫でる。
その光景を眺めていると、寂しさや悔しさに加え、ある種の達成感に似た感情も湧き上がってきた。
これから自分がどんな道を進むのか分からないが、きっと大丈夫だ。
頼れる人達も、そして愛する家族も、俺を支えてくれるのだから。
「…ぐすっ、お父さん、そういえば相手の人結構いい感じだったね。サイン…」
「勘弁してくれ…。」
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